ショートハイクのストーリーってオープンワールドって感じですげえ良かったよね

『A Short Hike』のストーリーって良かったよな、と改めて思ったのは、たまたまTwitterで流れてきた下記の文章を読んだときのことでした。

 

オープンワールドで非アクションのゲームを所望す」

はてな匿名ダイアリー、2021/02/02。以下「anond.(2021)」》

anond.hatelabo.jp

 


“これでもガチで条件に合うゲームあるのかな。「RPGでもいいけど齢とってから戦闘の連続に心が消耗するようになってきた」うーん……”
《池谷勇人(ねとらぼ副編集長)によるツイート。2021/02/02 16:50。以下「池谷(2021)」》

 


池谷(2021)はどちらかといえば否定的な立場を取っているように思いますが、わたくしはanond.(2021)に共感していて……というか、新味があるかどうかは別にしても、有効な問題提議だと思うんですね。

 

RPGで戦闘ばっかやるの何故なのかしら、というのは前から時々言われていたことで、それは例えば「貴様の死を通じて人間的に成長してやる」(ながいけん神聖モテモテ王国』)ためなのかもしれず、友情・努力・勝利の物語に不可欠な素敵スパイスというわけですが、せっかく買った『The Elder Scrolls IV: Oblibion』を3D酔いのため開始15分で放棄して10年後ようやく『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』で初めて現代的オープンワールドにちょっと触れただけのわたくしであっても(ところで『サバッシュII』はオープンワールドの箱で良いですよね?)、RPGにおける戦闘やらアクションやらの素敵スパイス性をそのままオープンワールドに当てはめるにはたぶん問題があるんだろう、くらいのことは思い当たります。

 

渡邉卓也「オープンワールドの「自由」ってなんだ? そして、『サイバーパンク2077』と『Ghost of Tsushima』の不自由さはどこから来るのか」

《『IGN Japan』2021/1/9。以下「渡邉(2021)」》

jp.ign.com


ほぼ同時期に書かれたこの渡邉(2021)では、オープンワールドのゲームで一本筋の通ったストーリーを語ろうとすると、オープンワールドのメカニズムによってもたらされる、サンドボックス的な、好き勝手なことをやれるという意味での自由と激しく齟齬をきたす、ということが記されています。

 

その自由って言葉に何か継ぎ足すとすれば、プレイヤーはオープンワールドのシングルRPG(アドベンチャー)において、勝手なことをやれるという意味での自由な生活を楽しんでいるわけですよね。生活というのはすぱっと綺麗に終わるものではないんで、ストーリーの側で勝手に落ちをつけられて、いや、それは今わたくしが満喫してるこの生活と何の関係があるんですか、という腑に落ちない感覚が沸いてきたとしても、その感覚は辻褄の合わないものじゃありません。

 

そういう自由な生活との齟齬というのは、anond.(2021)が書いた、強いアクション要素への疑問に繋がるものでもあります。オープンワールドの自由な生活は楽しそうだからやってみたいし、人間的に成長するのもいいんだけど、貴様の死を通じる必要はないし、いや貴様の死は正直なところ全然OKではあるんだけど、少なくともきょうの気分としては、俺の死の危険を通じてほしくはないんですよ。

 

こういう疑問に対して、『マインクラフト』みたいなゲームとか『あつまれ どうぶつの森』みたいなゲームを提示するのも、もちろん一つの正しい回答です。ただ、それはそれとして、終わりのあるゲームを鑑賞したい、それも、さっき言ったことと思い切り矛盾しますが、今回のゲームでは物語としての落ちが綺麗につくような形での終わりが欲しい、みたいな欲望は確実に存在します。だからこそ矛盾に目を瞑り、大量の資本を投下したオープンワールドのシングルRPGが次々と作成され、プレイヤーの側でも矛盾に不満を持ちつつトータルで言えば充分に楽しくそのようなゲームを遊んだりするのですし。

 

ここまでの話をまとめると、オープンワールドのシングルRPGは、

1. 勝手なことをやれるという意味での、自由な生活を満喫する遊びであって欲しい。

(苛烈なアクション要素に代表される、強制的に向き合わされるチャレンジ要素は、時に自由な生活を阻害することがある。)

2. それはそれとして、綺麗な落ちのある物語でもあって欲しい。成長譚歓迎

3. ただし、その物語は、自由な生活を妨げるものであってほしくはない

ということになります。

 

基本的に、「世界を救う」系のストーリーを全面的に掲げると、これらを同時に満たすことはできなくなります。渡邉(2021)でも指摘されている通り強い使命と自由な生活はそもそも相容れないものですし、世界を救う者であるプレイヤーキャラクターの生活は世界を救う過程と救った後で劇的に異なるものになるため、世界を救う過程の中でプレイヤーが生活の自由を満喫している場合、世界を救うという最終目的はその生活を(プレイヤーにとってだけでなく、ゲーム内世界的な意味でも)終わらせるものなので、自由な生活をあからさまに阻害する要因になります。

 

シングルRPGのストーリーは必ずしも、「プレイヤーキャラクターあるいはプレイヤーの最終目的を提示してゲームを開始する」⇒「最終目的を達成してゲームを終了する」というものである必要はないので、最終的に世界を救うストーリーに収斂させるにせよ、前半は普通に生活を満喫してもらい、世界を救うストーリーを提示するのは後半~終盤になってから、という手法は機能しうるでしょう。前半は世界に愛着を持たせる役割を持ち、従って自由な生活を満喫させるパートであって、後半にその世界を壊し、プレイヤーには世界を回復する役割を持たせることで、少なくとも最初と最後だけを見れば、プレイヤーおよびプレイヤーキャラクターの目は変わらず自由な生活の維持に向けられていることになります。渡邉(2021)では『ロマンシング サ・ガ』がこの手法を用いていると説明されています。ただ引っかかるのは、前半から後半へ向かう積極的な動機は無いですよね。なので運用上は、後半は向かうものではなく向こうからやってくるものにしないといけない、というのも、渡邉(2021)に書かれている通りです。

 

そういう方法ではなく、少なくともプレイヤーキャラクターには終始一貫した最終目的を持たせ、それを達成してゲームを終了するという、ゲームのオーソドックスな形式を遵守しつつ、それがオープンワールドの自由な生活を阻害しない、そのようなストーリーがあるとすれば、それは例えばどのようなものか。『A Short Hike』は、この問題への綺麗な回答になっています。

 

『A Short Hike』では、プレイヤーキャラクターの最終目的がゲームの最初に提示されます。その目的というのは「携帯電話の電波が届く場所へ行く」ことで、また実際にこのゲームはプレイヤーキャラクターが電波の届く場所へ着いたところでエンディングを迎えます。一方でこの目的は、それ自体がプレイヤーキャラクターの生活の一部なのでして、その達成が環境を大きく変化させるようなものでは全くありません。電波が届く場所へ行くのも、近所の子供とビーチスポーツに興じるのも、池で釣りをするのも、全てが生活の一部ですし、エンディングを迎えた後もそれまでと同じ生活が続くであろうことが担保されています。

 

残る問題は、そのような、自由な生活を阻害しないストーリーが、同時に綺麗な落ちのある物語にもなっているのか、という点です。プレイヤーキャラクターの動機はプレイヤーには伏せられており、この子が何故にそこへ行きたいのかという理由は、ゲーム中でも若干の手掛かりは与えられつつ、初めて全貌が明かされるのはエンディングになってからです。なのでプレイヤーは謎を抱えながら、あるいは若干のうしろめたさも抱えつつオープンワールド的な自由な生活を満喫し、しかしともあれいずれエンディングへ向かいます。そこでプレイヤーは、この子がどうしても電波を捉えたかった理由を知るのですが、それと同時に、それがこの子にとって他のあらゆることを押しのけるタイプの緊急性を持つ問題ではなく、その道すがら浜辺で貝殻を集めたり、山々を飛び回ってみたりといった、それまでプレイヤーがしでかしてきたオープンワールド的自由の行使の数々もまた、プレイヤーキャラクターにとって(プレイヤーにとって、ではなく)ゲームの最終目的と同様に……同じ意味で大事なものであったこと、これからも大事なものでありつづけるだろうことをも知るわけです。

 

この完璧な一貫性は、しかしあくまでもこのゲームが短編だからこそ為し得た特殊な達成なのではないか、さすがに長編というかAAAのシングルRPGで同じやり方を貫くのは厳しいんじゃないか、とはもちろん思います。思いますが、でもまあ、達成は達成ですし、わたくしは別にでかい予算組んで長編でやってくれなんて頼んだ覚えは全く無いですからね。これからは気軽に「でもショートハイクはそのへん巧いことやってたよ」と心無い文句をぶつけていこうと考えております。