読書感想文:『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』小説版の美点と漫画版の問題点

※ネタバレに全く配慮していません。『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』小説版(なろう版第1部~第5部/商業小説版第1巻~第6巻)および漫画版の展開や結末への言及が大量にあります。

 

小説投稿サイト「小説家になろう」に『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』(永瀬さらさ、本編2017-2019)という作品があって、2022年10月にアニメ化されるらしいんですが、なろう小説のアニメ化ってコミカライズ版をベースにすることが多いじゃないですか。「小説家になろう」掲載作品って読者との準リアルタイムのコールアンドレスポンス重視みたいなところがあるらしくて、まとまったものを後から読み直すとなんだかよくわからないものになっていることがままあり、しかも何でか知らないですけど商業小説として出版される際もたいした修正がかからないものだから(これはさすがに編集者がさぼりすぎだと思うんですけども)、コミカライズで色々脚色されたり整理されたりすることで初めて普通の作品として成立する、という例を実際に見たこともあるので*1、アニメが原作ではなくコミカライズ版をベースにすること自体は、それはまあ当然そうだろう、と思います。ただですね、『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』の場合、コミカライズ版をベースにしてしまうと、ちょっと作品の品質に問題が出るような気がしてならないんですよね。

コミカライズ版『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』(原作永瀬さらさ・作画柚アンコ 2018-2019)は、ある乙女ゲームのプレイヤーだった主人公がそのゲームの悪役令嬢に転生憑依し、自分を待ち受ける破滅を回避するべく奮闘するという「悪役令嬢物」ジャンルの典型例と言ってよいだろう作品で、原作小説第1部*2をベースにしています。悪役令嬢アイリーンが第二皇子セドリックと婚約関係にあったところ、ゲームのヒロインであるリリアと恋仲になったセドリックがアイリーンに対して婚約解消を宣告する、その瞬間に主人公がアイリーンに転生憑依するところから話が始まり、色々あった後にアイリーンは第一皇子クロードと婚約、また皇位継承権を失っていたクロードがそれを取り戻して王宮に帰還することで終わりを迎えます。本作は悪役令嬢物の中でも「ヒロインが性悪」パターンの作品で、ゲームのヒロインであるリリアは主人公たる悪役令嬢アイリーンに対して大きな障害として立ちはだかり、大小諸々の嫌がらせを実施し、遂には第二皇子セドリックをそそのかしてセドリックにアイリーンを強姦させようとし、第一皇子クロードを殺そうとします*3

以上の骨子はコミカライズ版・小説版第1部に共通ですが、大きく異なるのがリリアの設定です。小説版第1部では、ゲームのヒロインであるリリアがなぜ性悪であるのかについての説明は一切ありませんが、漫画版では中盤にさしかかったあたりで、リリアも主人公と同様に転生憑依者であることが示されます。リリアはゲーム世界の中においてもあくまでもプレイヤーとして振る舞い、ゲーム世界内の登場人物に対して人格を認めず、ゲームを攻略しようとする態度で生に臨みます。性悪というか、他の人物を自分と対等な存在だと全く思っていないわけですね。漫画ではアイリーンとリリアが対比的に描かれ、最終的には、ゲーム内存在として他のゲーム内世界の登場人物と対等に共に生きようとするアイリーンがリリアに勝利し、このゲーム世界の「主人公」となることが示されます。

それの何が悪いの、っていうか、小説版第1部は話として致命的な破綻があるじゃん、というのはもっともな疑問で、小説版第1部と漫画版とを単品で比較する限りにおいては明らかに漫画版のほうがきちんとした作品だと言えるんですが、問題はですね、小説版の正伝全5部を通して読むことではっきりと、暗示や示唆ではなく誰の目にも明らかであるような形で描写されるのは、アイリーンとリリアがそういう対比されるような存在ではなく、むしろ同質の存在だってことなんです。

小説版の(転生憑依後の*4)リリアも、「ゲーム世界の中においてもあくまでもプレイヤーとして振る舞い、ゲーム世界内の登場人物に対して人格を認めず、ゲームを攻略しようとする態度で生に臨む」点においては漫画版と同様ですが、なろう版のリリアがゲーム世界内の登場人物に対して人格を認めないのは登場人物が既プレイのゲームと同じことしか口にしない書き割り同然の存在だからであり、ゲームを攻略しようとする態度で生に臨むのは、このゲームをより良く鑑賞するため、とりわけこれまで見たことがないようなゲームの展開を引き出すためです。従って、漫画版におけるリリアの「ゲームを攻略しようとする態度で生に臨む」その態度が現世利益の追求と区別できないものでしかないのに対し、小説版の(転生憑依後の)リリアは現世利益という点ではほぼ無私と言ってよく、自らの生死にもさほど頓着しません。そしてこのリリアが最も愛する人物は当然アイリーンなのですし、

 アイリーンを好きなのかと言い出したリリアに、最初は自分も何か不安にさせてしまったのかと思った。だから何を言い出すんだリリア――そう、不安を取り除いてやろうとした。
 なのにリリアはがっかりした顔をした。
 つまらない男とでも言いたげな目でセドリックを見たあとで、そうよねと嘲笑った。
 ――女の言いなりになるだけの男は、いずれ飽きられる。
 (セドリックの独白。「小説家になろう」版第3部冒頭「ヒーローの攻略法」より引用)

このように自分が書き割りに等しい存在であることに疑問をおぼえ、そこから脱しようとする人物(それは往々にして、リリアへの反抗という形で示されます)に対しては、リリアは漏れなく祝福を与えます。

アイリーンは、小説版正伝全5部においてほぼ常に、ゲームの悪役としてラベリングされた登場人物たちに対し、かれらがゲーム世界内の現実においてどのような問題や願いを抱えているかを(プレイヤーとしての知識をもとに)考え、自らも同じゲーム世界を生きる存在として共に歩くことでかれらを救済していく存在であり続けますが、正伝の後半ではこれと平行して、ゲーム(のシリーズ続編)のヒロインとしてラベリングされた登場人物たちが自我を獲得する過程、そしてそれを祝福するリリアが描かれます。アイリーンは(亜神の力を持ちつつも)人の立場から、リリアは亜神の立場から、同じことをして回っているのだということが、第4部後半と第5部後半の二度にわたってアイリーンとリリアが共闘することによって示されます。

ところで、乙女ゲーム世界への干渉のありかたとして、読者にとって興味深いのは、アイリーンよりもリリアによる干渉のほうです。リリアによる主な干渉の対象であるヒロイン達を束縛するのは無論、乙女ゲームにおけるヒロインとしての行動規範であるわけですが、アイリーンから繰り返し「絵と声は良いがシナリオが雑」と批判されるこの乙女ゲームの世界では、その規範とは例えば男性を立てて一歩下がるような振る舞いであり、あるいは社会のために自己犠牲精神を発揮して(文字通り)死ぬことです。そのような規範を拒絶するのは、ヒロインであるという立場を拒絶することに他ならないため、

 「――嫌よ、できない!!」
 思わぬ声と、神剣が転がる音に、まばたいた。サーラだ。
 神剣を投げ捨て、首を振りながらうしろにさがるサーラに、アレスも驚いた顔をしている。
 「ど、どうしたサーラ。できないとは」
 「い、嫌よ、死ぬなんて」
 「死ぬ?」
 「そうよ! ――神剣を直したら、私、死ぬんでしょう!?」
 (乙女ゲーム第3作のヒロインであるサーラが自己犠牲を拒絶するシーン。「小説家になろう」版第4部38節より引用)

上記のようにゲームの美的な完成度を損なうものであるのかもしれず、周囲の社会やら登場人物に対して様々な迷惑を振りまくものでもあるわけですが、それだからこそ、これによって初めてヒロインは自我を獲得し、リリアの祝福を受ける資格を得るわけです。もちろんこれは、この乙女ゲームが……というかゲーム一般が……現実から無自覚に前提として引き継いでいる価値観が歪んでいて特定の属性を持つ人々(本作の場合はつまり女性ですね)へ犠牲を強いるのを当然視するものであることを告発しているものと読むべきでしょう。

小説版正伝全5部は、この構造を入れ込むために結構な無理をしているという理由もあって、そこかしこで破綻、とりわけ人間関係の連続性の破綻が起きています。前述のように転生憑依前のリリアが何であるのかという都合の悪い疑問に対してろくに回答が示されません*5し、他にもたとえば第二皇子セドリックは前述のように第1部で第一皇子クロードを殺害するためにアイリーンを強姦しようとしたにもかかわらず、第3部では平然とその第一皇子と馴れ合っています*6。しかしこれは、「小説家になろう」のような、完成度の追求という点では非常に過酷な環境の下、難度の高い(かつ、取り組む意義のある)課題を設定したがための破綻として(ある程度までは)擁護されるべきものであり、逆にこのような面倒な課題が設定される可能性を潰して完成度を取った漫画版の選択には素直にはうなづけません。

小説版においてゲームのプレイヤーがリリアに転生憑依するのは第2部の冒頭(「小説家になろう」2017年8月10日投稿)ですが、この第2部時点でのリリアは、第2部を通して描かれる事件を影で操る黒幕ですが、黒幕であることが示されるのみで、描写はほとんどありません。小説版におけるリリアの在り方が決定されるのは引用でも示した第3部冒頭(2018年4月5日投稿)で、一方で漫画版の連載開始はコンプエース誌2018年8月号なので、漫画版の企画時には単純にリリアのキャラクターが定まっていなかったという可能性も十分に考えられ、その意味で「漫画版は原作の解釈を間違えている」みたいなことを言うのはあんまりフェアではないのも確かなんですが、とはいえ、なろう版は(転生憑依後の)リリアのキャラクターに美点が集約されていると言ってもよいくらいの作品なので、やっぱり勿体ないよなあ、と思うわけです。

# っていうか、アニメ版を漫画版ベースの解釈で作っちゃったら、もしアニメが当たったときに続編作れないですよね?

*1:具体的に言うと『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった……』(原作山口悟、作画ひだかなみ、2017-)とかですね

*2:商業小説版第1巻相当。なろう連載2017年5月12日~6月18日、商業小説版2017年9月発売。なろう版正伝全5部と商業小説版第1巻~第6巻は大筋において差異はないので、以降は小説版と書いた場合はなろう版を指すことにします

*3:子細は省きますが、第二皇子セドリックが主人公を傷物にすると第一皇子クロードが激昂して魔物になるので、ヒロインのリリアは魔物になった第一皇子を殺すことができるようになるんです

*4:小説版第1部の段階では、リリアはまだ転生憑依しておらず、単なるリリアというキャラクターです

*5:このことは別種の問題も引き起こしています。リリアが亜神として行うべきことを概ね行い終えた正伝最終第5部後半の主題のひとつは、亜神ではない人としての、つまりプレイヤーではなくこの世界のキャラクターとしてのリリアはどう生きるのか、というものですが、人としてのリリアの因縁についてはそれまでに何も触れられていないため、第5部で亜神リリアが死んだ後に人として生き直すために復活すること自体は良いとしても、直接の死因と言ってよいだろう人としての因縁については、なんかあいつえらい怒ってるけど、くらいの困惑しか感想として持てなくなっています。

*6:本編とファンディスクで人間関係の差異があるのは良くあることではあるでしょうから、商業小説としてリパッケージする際に最低限そういうエクスキューズを入れてごまかすくらいはできたはずだと思いますが、そういうこともしていません