Paranoia礼賛 : Paranoia is fun. Other RPGs are not fun.

2003年7月の記事。誰か09年に出たアニバーサリーエディション訳してくんないかしら。


ゲームというのは必ずしも意思決定を伴うものでなくてもかまわない。「ああアクションゲームとかね」と返されると困るので言い換えると、なにか目標があって、そこに到達するために必要なスキルを競う(他人と競うという意味でも、あるいは自分の中でそのスキルの上達を目指すという意味でも)、というものでなくてもかまわない。ならゲームに必要な条件は何かというと、まずルール。あとふつうはルール実現のための物理的実体も要る。そして「プレイヤーが、“自由意思により”、“ゲーム世界への没入を動機として”、“積極的に参加すること”」。札束でひっぱたいたり銃で脅したりしてやらせるなんてものはゲームじゃないし(あくまで設計レベルでの話。あとでそれを仕事にする人が出てきてもそれはそれでかまわない)、見てるだけなら映画と変わらない。没入云々は、要するにゲームは娯楽である、ということだ。

と、以上はWolfgang Kramerの"What is a game?"からの受け売り。Kramerはこの文章の中で、目的達成のためのスキルを競うようなゲームのことを「ルールゲーム」と呼んで、ゲームの中の特別なサブジャンルとして扱っている。

で、実際に売られているようなゲームはルールゲームなのかそうでないのかというと、ボードゲームや麻雀とか、そのへんは当然のようにルールゲーム。コンピューターゲームも、アクションゲームとかそのへんは間違いなくルールゲームだろう。少し怪しくなってくるのはシミュレーションゲーム、特にウォー・シミュレイションゲームに分類されるもので、基本的な体裁としてはプレイヤーが各軍を操って勝ち負けを競うものだから当然ルールゲームなのかと思いきや、どうもこの世界にはシミュレーションをゲームよりも上と見る思想があるらしく、そういえばプレイヤーが操りきれないほど要素の多い「ビッグゲーム」という分野があるが、これはルールゲームとしてとらえるよりも、プレイヤー参加ができるような世界を創造しようというデザイナーの試みと見たほうがわかりやすい。そのようなゲームはルールゲームとしての体裁を取りながら、デザイナーの意識はルールゲームというより、ゲーム世界を創造するという部分に向いている。

ではシミュレイションゲームの派生物であるRPGはどうなのか?

コンピュータRPGではなくテーブルトップのRPGに限って言えば、答えは単純に、「ルールゲームではない」となる。ルールゲームとそうでないゲームとの違いは、前に書いたように「達成すべき目的があること」、そして「目的達成のためのスキルを競う」要素があることだけれど、スキルを競うことが可能になるためには、客観的な評価基準、少なくともプレイヤー全員が納得できるような評価基準がないといけない。多くのゲームでは、評価基準はルールとして全員に公表されているし、ゲーム途中で勝手にいじくられたりすることもないから、このことが問題とされることはない。これに対して、RPGは構造上、この客観性の確保が極端に難しい。

テーブルトップのRPGが他のゲームとどこが違うかといえば、もちろん第一に来るのはゲームマスターの存在で、ルールブックに書かれたコンセプトおよび汎用ルール群だけではRPGはゲームとして成立しない。コンセプト/ルールを受け取って完全体のゲームを生成するのがゲームマスターの役割なのだが、ここでゲームマスターがつくる完全体のゲームは、ふつうのゲームと異なり、ゲーム開始前に全てができあがっているわけではない。プレイヤーの行動が先にあり、行動が起こされた時点ではじめてゲームマスターによってその行動に関するルールが確定される。

そうではなく、ゲームマスターがシナリオを用意した時点でゲームは完成していて、セッション中のゲームマスターはシナリオの朗読者でしかない、という考え方をすることもできることはできる(ちょっと非現実的だと思うけど)。だけどそれでも、結局プレイヤーにとっては、自分が行動を起こしてみるまで完全なルールは提示されていないという点では全く一緒だ。完全なルールが最初から提示されていない限り、ルールゲームは有り得ない。

別にRPGがルールゲームでないことを咎めている訳ではない、というよりそもそもRPGがルールゲームでないことは欠点でも何でもない。ルールゲーム性とカバー可能な世界の広さとが天秤に掛けられ、ルールゲーム性が不要として切られたというところからゲームマスターシステムがはじまっているのだから、別にその後のRPGのルールが世界観の追究に向かっていったのも単に当然のことでしかない。つまるところ、ルールゲーム性を捨てることでRPGは成功したのだから、ルールゲームとしてのRPGを考えることは無駄なこと...本当にそうなのかな?

Paranoiaは敢えてそのルールゲームとしてのRPGを試みたゲームだ。既存の(といってもParanoiaの初版は1984年発売なんだけれど)RPGを馬鹿にしたいという一念だけで作られているようにも見えるこのゲームは、要素のひとつひとつがいちいち他のRPGと異なった手法で作られていて、その異なった手法というのが大抵の場合ルールゲームの手法を使っているのだけれど、ここでルールゲームとしての成立を考えるときに最も重要になっているのが、キャラクターの目的とその達成手段。

キャラクタの目的(*)は、他のキャラクタに罪をかぶせて自分だけ生き延びること。そう、RPGはルールゲーム性を切ったためにプレイヤーの対立も不要なものとして追放されたが、Paranoiaでは、プレイヤーの対立は殆どのルールゲームと同じく必須要素だ。そのために必要なスキルは? 言い訳の巧さとゲームマスターのご機嫌伺いだ!

(*)必ずしもプレイヤーの目的ではない。ルールゲームにおいて勝利を目指すことが実は目的ではなく参加条件である、っていうのと全く一緒。但しparanoiaではルールゲームと違って(そして他のRPGと同じく)、場合によってはプレイヤーの目的のためにキャラクタの目的を放棄しても構わない。ここはルールゲームとしてparanoiaを見たときに一番のネックになる部分なんだけど、でもこれが無いとparanoiaってゲームがそもそも成立しない。扱いがとても厄介な部分。

もちろんこれは、キャラクターにとらせる行動自体よりもゲームマスターの気分のほうが結果の善し悪しに関わってくるという、ゲームマスターによるゲーム生成のシステムに対する揶揄なのだけれど、同時にゲームマスター・システムとルールゲームとを共存させるという問題への一つの妥協解にもなっている。つまり、ルールゲームにおいてはゲームマスターがプレイヤーの「ゲーム世界への」理解度を試すという方法を取るのは不可能なので(なにせ理解も何も提示さえされていないのだから)、Paranoiaではマスターがプレイヤーの「現実世界への」理解度を試すようにしたというわけ。言い訳もご機嫌伺いも、外の世界で散々やってるはずだよね、知らないとは言わせないよ、と。

他に応用の利かせようがないこのやりかたは正当的な解とはとても言えないが、それでも他のやはりルールゲームをめざしたRPGが大概出来損ないのボードゲームにしかなっていないことを考えれば、確かに他の何者でもないRPGでありながら競技的でもあるという希有なゲーム体験を得ることができるこのゲームの価値は非常に高い。

大体さあ、ゲーム内世界の理解度を試そうってんで単語帳みたいな量の世界観設定を持ち出してくるRPGとか、いい加減もう厭なんですよ僕は。気が付けば店中見渡してもそんなゲームばっかになっちゃって、あんなん誰がやりたがるんだか。歴史学者とか?



p.s.

Paranoiaのもう一つの美点に、マスタリングの容易さが挙げられる。これはゲームがプレイヤー間の対立によって展開されていくため、ゲームマスターにゲーム展開を行う負荷が殆どかからないというのが理由だが、プレイヤー間の対立を可能にしているのはルールゲーム性であることは言うまでもない(キャラクター間の対立ならばルールゲーム性は別に要らない)。