松浦嘉一「緒論」(「アリストテレス『詩学』)

アリストテレス詩学』松浦嘉一訳/岩波文庫1949年刊、pp.5-54.

 

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■■ 緒論 ■■

 

■「詩學」とその歷史に就いて

 今日吾吾が有するアリストテレスの「詩学」は此偉大な哲学者がアテーナイの東郊リュケイオンの園で当代の学徒に講義した詩学の要綱だけを書き写した彼自身の覚書、若くは、聴講生の一人が取つたノートを再現したものであると言はれてゐる。
 アリストテレスは、三大悲劇詩人の最初の人アイスキュロスの死後約七十年程、最後の人エウリピデスの死後約二十年程に、生れてゐる。それ故、彼の時代から言へば、ペリクレスが作つたアテーナイの、同時に、悲劇の黄金時代は前世紀の昔のことであつた。アイスキュロスソフォクレスエウリピデスの悲劇は、当時においては既に古典であつた。さうして、之等の三大悲劇詩人に続く程の劇作家も出なかつた。喜劇、叙事詩に就いても同じ事が言へる。アリストファネスも既に過去の人であり、ホメロスに続くやうな叙事詩ペリクレス時代にも生れなかつた。アリストテレスの「詩学」は前世紀の赫赫《かくかく》たるアテーナイの文化の鬱勃たる精力が生んだ所の、かやうな芸術品を一応整理し説明すると同時に、其等の作品中の最善最高のものから或る一般的法則を抽象して、これを詩(広い意味に於ける)のテクニークとして若い詩人達に示さうとしたものである。
 歴史的に言へば、アリストテレスの「詩学」は、彼の師プラトンの芸術否定論から生れたものである。プラトンは、彼の哲学の主知的立場から悲劇喜劇を攻撃して、其等は吾吾の魂の中に於いて気高き理性を亡ぼし、劣等なる情緒を旺盛ならしめるものである。すべての芸術は模倣の模倣であつて、実在から三段も遠いものであると言つた。プラトンは戯曲のみならず、ホメロスの詩までも同様の理由から排斥した。プラトンの理想国家に許される詩は市民の子弟教育の資材となるべき限りの詩、即ち神神や英雄に対する讃美の詩歌のみであつた。アリストテレスの「詩学」は、言はば、プラトンの此芸術否定論を反駁したもので、彼の師が何等価値のないものとして排斥した詩を、教育道徳の方便とするやうな従属的地位から独立せしめ、詩それ自身の存在の理由を見付けようとしたものである。さうして、詩はアリストテレスのお陰で、初めて、独立の世界を与えられた。
 アリストテレスの死するや「詩学」は彼の群書の下積みに埋れたまま、幾世紀も世人から忘れられて了つたやうである。西暦三世紀のディオゲネス・ラエルティオスが其第五巻二十一節で「詩学」が二巻から出来てゐることを明示してゐる以外に、吾吾は雅典《アテーナイ》、歴山府《アレキサンドリア》、羅馬《ローマ》の三都時代を通じて、本書に触れた人の名を殆んど聞かない。リチャード・シュートの遺著「アリストートル著書史」に拠ればキケロ(西暦前一〇六~四三)は、就中「修辞学」を二十度も引用してゐるが「詩学」には一言も触れてゐない。プルターク(西暦約四六~一二〇)もアリストテレスの他の多くの書に言及してゐるが、「詩学」には、全然、直接に触れてゐない。古代の人で「詩学」の注釈を書いたといふやうな痕跡は絶無である。
 アリストテレスと共に古代の四大詩学者とも言ふべきホラティウスプルタークやロンギヌスも詩学濫觴《らんしょう》たる本書そのものを知らなかつたやうである。ホラティウス(西暦前六五~八)は所謂彼の詩論「アルス・ポエティカ」の処処(例へば其一一九行、一九一行、一九三行、三三三行等参照)でアリストテレスの詩論の思想を顕してゐるが、其等は単に「詩学」の間接の反映であることは、彼自身の言葉からも判断される。彼は「アルス・ポエティカ」二七五行以下に於いて悲劇の起源に対する彼の無知を曝露してゐるが、それは彼が「詩学」を読んでゐないことを暗示すると言へよう。プルタークに関しては、彼自身の詩学とも言ふべき「読詩人論」(De Audiendis Poetis iii)に於いて、吾吾が蜥蜴《とかげ》の絵を悦ぶのは、それが美しいためでなく、模倣されたものだからであると、アリストテレスの「詩学」四章の反映とも認むべきものはあるが「詩学」そのものに直接に触れてゐるといふことは絶無であると言はれる。最後に、ロンギヌスの「崇高論(ペリヒュプソウス)」(西暦一世紀とも或は四世紀とも言はれる)に至つては、其三十二節にアリストテレスに言及されてゐるが、それは「修辞学」に関してゐる。
 「修辞学」がアリストテレスの死後多くの人から読まれ、其姉妹篇たる「詩学」がまるで忘却された理由は、両書の内容に存するやうに思はれる。「修辞学」は弁論術を説き、何時の時代にも有用な学問であるに反し「詩学」は要するに戯曲と叙事詩のテクニークを説いたもので、特殊な時代にのみ顧みられる学問である。
 普通伝へられる所に拠れば、アリストテレス文庫は初めテオフラスツス、次にネレウスの手に相続され、それからトレミイ・フィラデルフスに買上げられてアレキサンダア市に運ばれた。其後羅馬帝国が基督教へと改宗するや、其文庫は羅馬官憲に依つて検閲され、基督教に反する性質の著書は禁圧されたが、尚秘かに読まれつづけ、やがて回教徒が埃及《エジプト》を占領するに至るや、アリストテレスの研究はシリアのアンティオクに移つた。「詩学」が基督教徒の手に依り受難したことも十分想像できる。殊に現存の「詩学」が原本の半分程に過ぎないことは、その後半で説かれた筈の喜劇論が、基督教徒の道徳心に障って、全部破棄されたが為であると推定される。
 西暦三三〇年|羅馬《ローマ》帝国の首都が羅馬《ローマ》から君府《コンスタンチノープル》に遷つた時、希臘《ギリシャ》文学も共に付随して行き、其処で十五世紀の初期まで、所謂其ビザンチウム時代を作つた。吾吾が有する最古の「詩学」の希臘《ギリシャ》テクストParisinus MS. 1741、通常Acと略称されてゐるものは実にこの時代(西暦一千年頃)に出来たものである。さうして、只、その頃に出来たといふ以外に、中世紀の希臘《ギリシャ》人に「詩学」に関する何等の文献あることを聞かない。然しながら、不思議にも「詩学」は東方の国で読者を見出した。「詩学」は八世紀にシリア語に訳され、十世紀と十一世紀の間にAbu Bishar(またはBashar)Mattaに依つて其シリア訳から亜刺比亜《アラビア》語に重訳された。間もなく亜刺比亜《アラビア》の哲学者アヴェロイーズ(一一二六~九八年)が此|亜刺比亜《アラビア》訳に拠つて「詩学」の註釈を書き、其れが希伯来《ヘブライ》語に訳され、之れが再び十三世紀に、ヘレマヌス・アレマヌスに依り「アリストテレス詩学」の名で羅典《ラテン》訳された。此羅典語の抄訳のみを通して、アリストテレスの「詩学」は僅かに中世に知られるやうになつた。然し、スピンガアン(「文芸復興期の文芸批評史」一六頁)に拠れば、それは此時代の文芸批評界に影響を与へた何等の痕跡もなく「詩学」はダンテにもボカーチヨにも、また殆んどペトラークにも知られてゐなかつた。
 近世に於ける「詩学」の歴史派十五世紀の後半に始まる。此時|君府《コンスタンチノープル》が土耳其《トルコ》人から脅かされたが為に、其処の多くの希臘《ギリシャ》学者が数多の古典文学を携へて伊太利《イタリー》へ逃避したからである。かくして、初めて、伊太利の学者に「詩学」の希臘《ギリシャ》語原文そのものが知られた。一四九八年、希臘《ギリシャ》語からの最初の羅典訳がヂョルヂォ・ヴァラに依りヴェニスに出版され、一五〇八年「詩学」亜原文の初版がアルデュス版の「希臘《ギリシャ》修辞学者」の第一巻として世に出た。然し不幸にして、それは杜撰極まる編纂で、テクストは悪化したと言はれて居る。一五三六年パチはこの希臘《ギリシャ》テクストに羅典訳を添へて出した。一五四八年、ロボルテリは羅典訳と世界最初の註釈とを添へて出した。翌年センニは初めて伊太利《イタリー》訳を出した。続いてマヂ、ヴェトーリ、カステルヴェトロ、及びピコロミニ達の訳註が出た。
 かように幾世紀も隠滅の底に埋れてゐたアリストテレスの「詩学」はヴェニスやフローレンスから矢継早やに出版されるに至つたが、これが直ちに当時|伊太利《イタリー》を中心として起つたルネサンスの文芸評論の根底を形作る運命を持つた。この方面の知識はスピンガアン著「文芸復興期の文芸批評史」から十二分に得られる。
 文芸復興期の伊太利《イタリー》に於ける「詩学」研究はベニに終つたが、其余風を承けたものにネザーランドのライデンから一五九〇年仏人カゾォボンに依り、一六一一年|和蘭《オランダ》人ヘンシュウスに依り、編纂された二つの「詩学」がある。下つて、一六九二年|巴里《パリ》からダシェの仏訳及び註釈と、一七七一年バトゥの「四つの詩学」Les Quartes Poétiques d'Aristote, d Horace, de Vida, de Despréaux)とが出た。
 独逸に於いては一七五五年クルチュスに依り「詩学」の最初の独訳が出た。グーデマン(「アリストテレス詩学」序文一五頁)に拠ればこの独訳は杜撰で、解釈全然ダシェに因つたものであるが、ゲーテやシルレルが此独訳を通してアリストテレスの「詩学」を知つたといふ歴史的興味あるものである。レッシングが一七六七~八年に亘つて、彼の「ハムブルグの戯曲論」に於いて「詩学」の研究を発表してゐることは人も知る所である。
 英国に於いては、一六二三年|倫敦《ロンドン》からゴウルストンの羅典訳が、一七八〇年|牛津《オックスフォード》からウィンスタンリイの註釈が、一七八九年倫敦からツウァイニングの英訳と弘汎な註釈とが、一七九四年|牛津《オックスフォード》からティリットの有名な羅典訳と羅典語註釈とが出た。
 以上十九世紀初期までの「詩学」の諸版註釈は、近世に於ける該書研究のアルデュス版時代のものと仮に名付けられ得るであろう。即ち、其時代までの「詩学」研究社の何れもが、一五〇八年に出たアルデュス版を、さういふ名と、それが世界に於ける「詩学」原文の初版であるといふ威光とで、其最も信憑《しんぴょう》すべき原文であると誤信し、悉く、此れに基因し、単に意義不明の個処に対し、各自思ひ思ひの些細な改訂を加へたのみで、三百有余年に亘って、編纂者から編纂者へ、学者から学者へ伝へたからである(バイウォータア著「アリストートルの詩学」序文二五頁)。
 近世に於ける「詩学」研究の後期とも言ふべきは独逸のリッタア、スペンゲル、並びにファーレン達のアルデュス版の不良性摘発に始まる。かくして、初めてAc稿本が「詩学」の唯一の典拠たることが世界に認められ今日に及んで来てゐる。其故、近世後期に於ける「詩学」研究は独逸に始まり、さうして、独逸に於いて最も優勢であつた。就中、ベルナイス(Grundzuge der verlorenen Abhandlung der Aristoteles über Wirkung der Tragödie; Breslau, 1857)が悲劇のカタルシス作用に対する新解釈を詳説して、初めて学界を首肯せしめたことは特筆大書すべき点である。
 独逸の「詩学」研究に接踵《せっしょう》して起り、而も円熟老成したる点にて前人の塁を摩すの定評あるものが、一八七三~一九〇九年の長きに亘るバイウォータアの「詩学」研究である。バイウォータアはファーレンの余風を承けて、Acテクストが「詩学」最古の稿本たることを論理明快に唱道し「詩学」中の字句述語の殆んど悉くに対し、アリストテレス若くはその他の作家から、其等に平行するものを引用例示して、初めて、其等の真意義を捉へるといふ、最も堅実な法式に拠つてゐる。然して其等の例証を見るに、あるものは、従来、必ずしも、正当に解釈されてゐなかつた字句の意義を確定し、あるものは、伝統的読方を確証し、従来|擅《ほしいまま》に其れに向つて投げられてゐた危惧を一掃してゐる。
 「詩学」のテクスト研究と解釈に対する世界の主なる貢献は以上の如きものであるが、尚、私はここに、一八八七年英人マルゴリウスが、世界に於いて初めて「詩学」の亜刺比亜《アラビア》訳を世に出したといふ一事を特筆しなければならぬ(Analecta Orientalia ad Poeticam Aristoteleam)。マルゴリウスは、其処で此|亜刺比亜《アラビア》訳の処処を断片的に羅典語訳して「詩学」のテクスト研究に此東洋語の訳書を利用する方法を示した。其れ以来、此|亜刺比亜《アラビア》訳、これまで「詩学」学者がやつてきた所の、意味不明の字句に対する創造的修正のあるものを確証したりして「詩学」研究に重大な役目をするやうになつた。其後マルゴリウスは一九一一年、亜刺比亜《アラビア》訳を全部羅典訳し、それと並べて希臘《ギリシャ》語テクストの一つの改訂版を発表した。尚、彼のこの書(The Poetics of Aristotle)は、「詩学」をアリストテレス学に精通暗記したる者のみに理解できる一つの秘伝書と見る観点から取扱つて、多くの興味ある註釈と示唆とに富むことを附記して置く。
 世界に於ける「詩学」研究の大部分はテクスト研究と解釈とに集中されてきたが、近世、独逸で「詩学」に説かれた持論を骨組とし、これをアリストテレスの他の諸篇に散見する此方面に関する彼の言説で肉付け、さうして、此哲学者の頭に存在してゐた芸術論、否な芸術学を組立てて見ようとする試みが起つた。「詩学」そのものは数多の学者の努力で、殆んど、完全に釈明されたが、単に其所に顕はされた一連の思想の説明のみでは、アリストテレスの所謂芸術学を組織する一団の思想を窺ふことは出来ない。そこで、彼自身の多くの諸篇から材を拾ひ集めて、彼の当然考えてゐた芸術学を築き上げようとするのである。この試みをなしたものが、タイヒミュラアの「アリストテレス研究」(Aristotelische Forschungen, 1869)ラインケンの「芸術上に於けるアリストテレス」(Aristoteles über Kunst, 1870)デゥリングの「アリストテレスの芸術学」(Die Kunstlehre des Aristoteles, 1870)ベルナイスの「アリストテレスの戯曲論に関する二論文」(Zwei Abhandlungen über die Aristotelische Theorie des Drama, 1880)である。一八九四年倫敦から出たブチァの「アリストートルの詩論」(Aristotle's Theories of Poetry and Fine Art)は此部類に属すべきものである。


■異本に就いて

 Acと前に述べた所の「詩学」の亜剌比亜《アラビア》訳と今一種の稿本で数多あるルネサンス稿本との価値上の比較問題に関してはバイウォータア「アリストートルの詩学」序文二七~四七頁に亘って明細に論術されてゐる。
 然し、この問題に対するバイウォータアの立場を明かにする為には、先づ、彼に反対の立場をとつてゐる人、例えばマルゴリウスの立場をはつきり述べる必要があらう。亜剌比亜《アラビア》学者でシリア語までにも精通した彼は、「詩学」の亜剌比亜《アラビア》訳が信頼に足るものであることを明かにする為に、彼に知られた二十三個の現存「詩学」稿本中、その十一個を原稿本で、他の十一個を写真版で調べ亜剌比亜《アラビア》訳と比較研究した。かくして彼に依つて校訂されたギリシャ語テクストと、それに対照して掲げられた亜剌比亜《アラビア》稿本の訳文とは、この著者の最善の信念に拠れば、「詩学」の東西両洋の伝統の全部を洩れなく盛つたものであると彼の序文に記されてゐる。事実、マルゴリウスが初めて世界に紹介した亜剌比亜《アラビア》訳は、処処に優れた読方を持つて居、二十世紀の「詩学」研究に大きな影響を与へた。英国ではブチァに大きな影響を与へ、独逸《ドイツ》のグーデマンやステッヒにも明かにその影響が認められる。この亜剌比亜《アラビア》訳が如何に優れた読方を持つかを読者に示す為に私は只一つ、二つの例証だけを此処に挙げたい。例へば「詩学」Ac稿本第一章一四四七a二九節で、十九世紀時代にユーバアウェブが“epopoia”(叙事詩)を削除し、ベルナイスが“anōnumos”(無名なる)を挿入した修正の正しいことが、十年後乃至は二十年後になつてマルゴリウスの前述の著Analecta Orientalia ad Poeticam Aristoteleam四七頁に於いて、亜剌比亜《アラビア》訳の読方に依つて確証されたのである。従つてバイウォータアもそれらの修正を採用してゐる。
 マルゴリウスは、また、Acをギリシャ稿本中最古のものであることを認めるがルネサンス稿本の或るものは必ずしもAcをそれらの原稿本としてゐないと主張する。就中、彼はAcに次いで最古の十四世紀稿本「リッカーディアヌス四六」がAcから独立した別箇の稿本であることを亜剌比亜《アラビア》訳に拠つて証明できることを主張する。即ち「詩学」のギリシャ稿本中、この「リッカーディアヌス四六」だけが最初の原稿本のある一行を保存し、Acをも含めて他のあらゆるギリシャ稿本は、それを脱落させてゐることを指摘してゐる。即ち「詩学」十六章一四五五a一四行に於いて、下の〔 〕の間に在る文句は「リッカーディアヌス四六」だけに見出されると言ふ。to men gar to toxon 〔enteinen allon de mēdena, pepoiemenon hupo tou poietou kai hupothesis, kai eige to toxon〕 ephē enteinein ho oukh heōrakoi, etc.(この弓を張ることが他の何人にも能はぬといふことは、詩人に依り仮定され、一の仮設とされてゐるのに、しかも彼が未だ見たことのない弓を張ると言つた、云々)。所が、亜剌比亜《アラビア》訳の此節にはこの〔 〕内の文句に近似の言葉が見出され、只その最後が「彼が未だ見たことのない弓を張る云々」ではなくして、「彼の未だ見たことのない弓を再認し能ふと言ふならば誤れる推論である」となつてゐる。それ故、マルゴリウスの「詩学」は「リッカーディアヌス四六」稿本の前期の引用文中の第二のenteinein(張る)を誤訳と認め、Ac稿本の同処に見出されるgnōsesthai(知る)に修正し、結局この節を「オデュセイア」十九巻五八六行にかけて解釈して次のやうに意訳してゐる。「オデュセウス以外の何人もこの弓を張れないと、ホメロスに依つて仮定されてゐるが、ペーネロペイアはこの乞食が未だ見たことのない弓を、オデュセウスは再認しようと考へる。発見が弓を張ることでなされなければならなかつたのに、弓を知つている。といふことでなされるのは誤れる推論である」。誠に無味乾燥な、且つ、全く失はれた一の物語の中に出る変装したオデュセウスの露見を問題にして述べられてゐる為に、意味も明確でない言葉を私が敢て読者に示したのは、数多在るギリシャ稿本中「リッカーディアヌス四六」だけに見出される一行の言葉が、亜剌比亜《アラビア》稿本に依つて確認され得るといふ事実をはつきりさせたい為である。しかも、他のギリシャ稿本がその一行を脱落させてゐると考へるならば、マルゴリウスも強調して言ふ如く、昔の写字生がしばしばやつた手近かに二度出る同語の間に挟まれた文句の見落しで、極めてありさうな脱落である事実に注意しなければならない。
 次にバイウォータアの「詩学」の諸異本に就いての見解の大要は下の如くである。
 亜剌比亜《アラビア》訳が、処処にてAcよりも優れた読方をし居、Acに顕はれたる筆耕上の大なる誤謬を訂正してゐるけれども、尚Acは「詩学」の原文として第一位を要求する。其一理由は、Ac稿本は、元来「修辞学」及び後期アリストテレス派の修辞学上の論文をも含んだ一巻の一部分であるが、之等の「詩学」以外の稿本がすべて優れ、各自第一位の典拠たる性質を備へてゐることである。第二の理由は、Acは五世紀四世紀、もしくは其れよりも古い書体の稿本に溯る誤字を持ち、また、処処に古代の字綴りの痕跡を止めてゐるなどの点である。
 マルゴリウスが初めて世に出した亜剌比亜《アラビア》本は、八世紀に、或る一つの希臘《ギリシャ》稿本からシリア語に訳されたのを、十一世紀に亜剌比亜《アラビア》語に重訳されたものである。それ故、吾吾は此|亜剌比亜《アラビア》文字の裏面を眺めて、Ac稿本より、少なくとも、三百年だけ古い一つの希臘《ギリシャ》稿本(通常Σと記号される)を編み出さとするのである。然してシリア訳は、今日、只、僅かな断片――マルゴリウスに拠れば只一頁だけ――以外に現存しない。従つて、吾吾は、亜剌比亜《アラビア》本から先づシリア文字を推定し、更に、それから希臘《ギリシャ》テクストの姿を見極めようとするのである。ここに吾吾が注意すべきは「詩学」の如き性質の書が東洋語に訳される場合、正確は到底望み難いことである。吾吾は「詩学」が説く悲劇なぞに全然門外漢たる東洋人が誤謬なく之れを訳したとは信ずることは出来ない。且つまた、亜剌比亜《アラビア》の訳者がシリア本を誤訳しないとも言へない。尚、今日現存するただ一個の亜剌比亜《アラビア》本のテクストそのものが、誤写その他で大部分痛んでゐることも推測され得る。それ故、吾吾は、単に、シリア本の原本たる希臘《ギリシャ》稿本がAcよりも三百年も古いといふ理由のみにて、其れが、全体を通じて、Acよりも優れた典拠であるとは言へない。吾吾は、只、其部分部分の価値のみを取らなければならない。今の所、亜剌比亜《アラビア》訳の価値は、ルネサンス時代、もしくは、近世の諸学者の頭脳から出た、テクストの字句上の想像的修正のあるものを確証するやうなところがあるといふ点に存する。
 今一種類現存する「詩学」の稿本はルネサンス稿本でAcに非ざるすべての希臘《ギリシャ》稿本がこれである。通常Apographa(略してapogr.)と称せられ、スペンゲルやファーレンに依り、結局Acの写本であると呼ばれたものである。然しながら、之等のルネサンス稿本の処処に点在する、Acよりも優れたる読方は、一部の学者をして、Acと全然別な、さうしてAcの有する誤謬より脱した、或る希臘《ギリシャ》稿本で、今は世に無きものが十五世紀まで残存したと主張せしめた。さうして、一八八七年|亜剌比亜《アラビア》本と其のある部分の羅典《ラテン》訳とが世に出、それがルネサンス稿本の有する優れた読方を肯定するや、この主張は益々権威を加へた。然しながら、Acより独立したある古い稿本が十五世紀に残存したと証拠立てようとする之等の点は、其事実を反証する諸点に比較するならば取るに足らないものである。
 数多あるルネサンス稿本に就いて、先づ、吾吾の眼に迫る要点は、之等のテクストが各自に違つてゐる点である。ある稿本は、Acより、只一歩のみ逸れてゐるに反し、他の稿本はAcから著しく変化してゐる。ルネサンス稿本の中、ウルビナス四七並びにパリシヌス二〇四〇はAcとの差異の軽微な部類を代表するものと言へよう。前者に於いては、吾吾はAcに対する誠に単純なる、而も必然的な修正を相当に発見する。同時に之等の稿本はAcの有する誤謬と誤写とをそのまま継承してゐる。かやうな事実が因つて起る源は只一つである。即ち、彼等はAcそのもの、乃至は、Acの写本を写したものでなければならない。後者の稿本の基本が前者の系統のものであつたことは明白である。何とならば、吾吾は両者の間に、省略その他Acと違ふ読方の点に、可也、一致を発見するからである。尤も両者の間に相違が無いではない。パリシヌス二〇三八とアルデュス版はテクストの伝統を全然破壊してゐる。筆耕者は勝手極まる省略、増補、悪化を行ひ、Acの難解の個処を読易くしてゐるのである。之等の稿本の有する多数の修正中、吾吾が採用し得るものは甚だ僅少である。単に、三、四の正しい修正を有するといふ事実は決して、修正者が之等の修正を、常時残存してゐた或る稿本中に発見したといふ理由にはならない。それに、当時の写字筆耕者は一般に立派な学者であり、同時に、機に臨み鮮やかな工夫の出来る人達であつたことに思ひ至るならば、彼等の多数の修正中の三、四が的中したことは、左程、怪しむに足らないことである。
 以上に挙げた之等代表的稿本から見たルネサンス稿本の諸相は、之等の稿本が持つ優れたる読方すべてが、筆耕者の想像憶説であつたことを明示してゐる。さうして、数多のルネサンス稿本は、結局、何れもAcを基本としたものと認められる。所が、一八八七年、マルゴリウスに依り亜剌比亜《アラビア》訳の有する読方が発表され、其れがルネサンス稿本の有する優れた読方のあるものを確証するや、この結論に対する疑問がとみに台頭した。然し、優れた憶説が、後に新しく発見された文献に依つて確証される例は珍らしくない。「詩学」に於いてさへも、亜剌比亜《アラビア》訳はファーレンの修正、或は遠くマヂ、ヴェトーリ、ヘンシュウスその他の修正のあるものを確証している。さうして、またルネサンス稿本の有する優れた修正も、細密に調べる時には、それほど天啓的な修正ではない。修正者に批判的創意と、これを自由に発揮する勇気と、さうして、古典文学に対する相当の造詣があるならば、左程困難な修正ではない。最後に指摘すべきは、彼等の優れた読方が一本に纏つて見出されるのでなく、諸種の稿本に散見される点である。もしも、其等の優れた読方が、ある古代の、さうして、優れた一つの稿本に存在してゐたのであるなら、何故に、其等の優れた読方は、かやうに、其のあるものは或る稿本に、他のものは他の稿本にと散在的に保有されるに至つたか解釈に苦しむ所であると。


■諸家の読方の比較

 「詩学」テクストに対する学界の大勢は、Ac*を他のすべての稿本の基本であるとするのであるが、今尚ルネサンス稿本並びにアラビア訳に心を惹かれる人もあるやうである。それ故、Acを他のすべてのギリシャ稿本の基本であると信ずるバイウォータアのテクストと、ルネサンス稿本並びにアラビア訳を、可也信頼するマルゴリウス並びにブチァのテクストとを比較して見る時は、「詩学」稿本に対する世の之等の二種の見解を比較し得られよう。さうして、また、両氏の各テクストの下に掲げられた異読表は吾吾をして、「詩学」テクストに対する従来の諸学者の見解のほぼ全般を一瞥せしめる。それ故、訳者は両氏の異読表に拠つて、先づ、両氏のテクストを比較し次に、之等をマルゴリウス、ティリット、またはステッヒ、グーデマンなどの独訳と比較して見た。下に掲げられた異読表は、かやうな比較の結果発見された「詩学」本文の読方並びに解釈上の相違の中、差異の顕著なるもののみを、章を追うて、列挙したものである。異読の各には、先づバイウォータアの原文に於ける、次に本書の和訳に於ける、其場処を冠した。また、訳者は引用せるギリシャ原文を悉く羅馬《ローマ》字に書換へた(ユィプシーロンをすべてuで現はし、iota subscriptumを横に表はして)。尚、下の異読表には、従来の慣例に倣つて左の略語略符を用ひた。
* Ac:十一世紀に出来た稿本で、他のすべての稿本の基本と認められてゐるもの。
  agogr.:Ac以外の稿本の一つ若くは一つ以上。
  Arad.:「詩学」の亜剌比亜《アラビア》訳。
  Σ:亜剌比亜《アラビア》訳を通して想像し得た、Acよりも遥かに古く、今は世に無き稿本。
  Ald.:一五〇八年のアルダイン版。
  〔 〕:稿本中の字句で、筆耕者の不注意な、若くは不必要な増字並びに重複語と見做され、削除された部分を画する符号。
  〈〉:アリストテレスは、実は、かう言つたのであらうとの想像的補挿の字句を画する符号。
  **:字句の剥脱したる、若くは、剥脱したものと想像される個処を示す符号。
  †:悪化した字句で、未だ、満足なる復旧を見ない部分を示す符号。

【編注:各章の比較は各章のエントリの下に移動した】

 

■本書の和訳とその解説註釈とに就いて

 本書の和訳は、全然、一九〇九年、牛津《オックスフォード》版バイウォータア著「アリストートルの詩学」のテクストと、其練達したる英訳並びに註釈とに其因したものである。訳者は、先づ其テクストを能ふ限り精査し、次に其英訳に向ひ、さうして、これにどこまでも、因りながら尚、措辞に於いて、出来るだけ希臘《ギリシャ》語の持味を出すことに努力した。和訳の此処彼処に出る〔 〕を附した割註は原文に無い字句で、而も読んで分る文章として必要と訳者が認めた補挿句である。之等の補挿句を容れ、また、バイウォータアの英訳に於いて、希臘《ギリシャ》語のままに出てゐる引用句などを和訳するに就いて、一九一三年頃|亜米利加《アメリカ》で出たクーパアの「詩学」敷衍《ふえん》訳が参考になつた。
 Acが現存の他のすべての稿本の基本たることを信ずるバイウォータアの「詩学」の特色は、従来、他の多くの「詩学」学者がAcの難解なる個処に出会う毎に、無造作に直ちに、或はルネサンス稿本に向ひ、或は亜剌比亜《アラビア》訳に向ひ、其等の有する読方を採用したに反し、彼は明正なる考察の下に、従来の修正の非を唱へ、Acにあるままを採用し、而も見事に解釈し去つた点に存する。
 訳者は、バイウォータア及びブチァのテクストの下に掲げられた異読表の示すところに拠つて、ティリット、ファーレン、リッタア、ズゼミール、マルゴリウスその他の「詩学」学者の別様の読方に直接に当つて見、さうしてまた両氏並びにマルゴリウス、ステッヒ、グーデマンなどのテクスト並びに英、独訳を比較して見た。この可也|煩瑣《はんさ》な仕事が訳者に齎《もたら》した果実は、本書の和訳が一層正確になつたことと、今一つ、さうしてそれは最も重要なことであるがブチァのテクストを通して「詩学」稿本に対し、バイウォータアと丁度正反対の見解を有する「詩学」修正者の読方をほぼ窺ひ知つた事である。ブチァはマルゴリウスと同じく、Acが他の稿本よりも優れてゐるとは信ずるが、其れが他のすべての稿本の基本であることを信じない。其理由は、結局、前述の、ルネサンス稿本の優れた読方のあるものは、単に筆耕者の修正としては、あまりに優れたものであるといふ点に帰する。両者を比較すると、バイウォータアがAcのままを採用してゐる個処で、ブチァがルネサンス稿本を採用してゐる例は十を下らない。またブチァは、亜剌比亜《アラビア》訳を非常に信頼してゐる点に於いて、バイウォータアと際立つた対照をしてゐる。バイウォータアがAcのままを採用してゐる個処で、ブチァが亜剌比亜《アラビア》訳を採用してゐる例は五を下らない。
 本書の註釈は、主として、バイウォータアの示唆に依つて出来たものであるが、尚これを補ふに、前紀のマルゴリウス著「アリストートルの詩学」、バトゥ著「四つの詩学」、ツウァイニングの美しく、さうして、珍らしい挿話的註釈、並びに一八八七年|独逸《ドイツ》に出たステッヒ著「アリストテレス詩学」註釈等の採録を以てした。また必要に応じて、註釈の部に於いて、各章の冒頭に冠した解説はバイウォータア同上の書、ブチァ著「アリストートルの詩論」四版並びに、深田康算博士著「芸文」掲載「アリストテレスの芸術論」、殊にウィラモウィツ著「ギリシャ悲劇序論」に負ふ所多大であつた。ウィラモウィツの著は「詩学」、殊にアリストテレスのトラゴーディアの定義に対する、今日最も権威ある解説並びに批判と考へられるから、本訳書の第六章に於いて、彼の所説の概要を紹介しておいた。
 本書の解説註釈に引説したプラトン対話編はジァウェットの英訳に拠つた。アリストテレスの「政治学」はジァウェットの英訳並びに、ニューマンの註釈に、「倫理学」はチェイズ及びギリスなどの英訳並びにスチュウァトの簡訳と註釈とに、「修辞学」はジェップの英訳並びにコープの註釈に拠つた。註釈中、希臘《ギリシャ》演劇に関してはヘイグ著「希臘《ギリシャ》悲劇」並びに同人著「希臘劇場《アテツクシアタア》」(三版)並びにモールトン著「古代古典劇」二版などに拠つた。また、希臘《ギリシャ》悲劇の梗概に関しては、アイスキュロスはスウォニクの散文訳(ボーンス叢書)に、ソフォクレスはストーの英訳(ハイネマン社)コウルリッヂの散文訳(ボーンス叢書)などに、エウリピデスはウェイの英訳(ハイネマン社)に拠つた。最後に、ホメロスに関しては、主として「イリアス」はダービイ卿の英訳(エブリイマンス叢書)に「オデュセイア」はマリの散文訳(ハイネマン社)に拠つた。

 

 

【編注】

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした。その他、知名についても適宜ルビ振りをおこなっている:
・堙滅→隠滅
・危懼→危惧
・玆に→ここに
・屡〻→しばしば
・益〻→益々