アリストテレス『詩学』第四章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第四章 ■■


大体から言つて、ある二つの原因が詩を生み、その何れの原因も人間の性情から流れてゐるやうである。〔*1第一の原因は人間の模倣性である。〕何とならば模倣するといふことは、人間にとりては、子供の時分から本然に備つてゐる。さうして、人間が他の動物と異る点は、人間は最も模倣的な動物であつて、人間の最初の知識は模倣を通してなされるといふ所にある。同時に人間すべてが、模倣されたる者に悦びを感ずるといふことも、また人間の本然である。〔これが第二の原因である。〕人間が模倣されたる物を悦ぶことは、経験に依つて説明される。仮令、対象そのものは、吾吾の眼に苦痛を与へることがあらうとも、其模倣(例へば最も低級なる動物や人間の死体の描写)は、如何に写実的に表現されてあるとしても、吾吾はこれを見ることを悦ぶものである。それは、何ものかを知ることは、哲学者のみならず、全ての人(仮令、その人の、物を知る能力がいかに小さくとも)にとつて、最も大なる悦びだからである。吾吾が絵を見て悦ぶといふことは、吾吾は絵を見ると同時に、何ものかを知る、即ち、例へば、この絵の人物は誰々であると言つたやうに、事物の意味を推知するからである。それ故、人が描かれたものを前以て見たことがない場合は、その人の悦びは、その絵を其ものの模倣として眺める悦びではなくして、その絵の描き方、彩り、その他、同様な原因に基く悦びである。それで、模倣は――調和(ハルモニア)並びにリズム〔韻律(メトロン)がリズムの一種なることは明かである〕に対する吾吾の感覚がまた、さうであると同じく――吾吾人間に本然なものである。人人は、彼等のかやうな資性に基き、さうして、種種な改良(その大部分は漸次的であつた)を経て、初めて最初は即興であつたものから、今日の詩を創造したのである。
 然し詩は間もなく、詩人各自の性格の差別に依つて、二種に分れて了つた。より厳粛なる詩人は、*2高貴なる行為と高貴なる人達の行為とを、これに反して、より軽卑なる詩人は、悪しき人達の行為を描いた。前者が、*3賛歌(ヒュムノス)や頌詞(エンコーミオン)を生んだ如くに、後者は、初め、そしり詩(プソゴス)を生んだ。ホメロス以前の詩人の中に、かかる作家が恐らく沢山ゐたであらうけれども、吾吾は其詩を知らない。然し、ホメロス以後に於いては幾多の例が見出される。例へば、ホメロスの作なる「マルギテス」或は他の詩人の同様なる詩の如きがそれである。これらのそしり詩に於いては、短長脚(iambeion)の韻律が、その自然の適合性に依り採用された。それ故、今日この韻律は、かようにiambeionと名付けられる。それは、相互にiambizein(そしる)する詩の韻律だつたからである。その結果往古の詩人のある者は英雄詩作家となり、ある者は、そしり詩作家となつた。ホメロスは、荘重なるものを取扱つた場合、作家として優秀なる技量を示したのみならず、その模倣の特質が戯曲的であつたがために、詩人中の詩人であつた。と同時に、彼は笑ふべきもの(個人的そしりでなく)を戯曲的に描写したことに依つて、吾吾のために、喜劇の大体の輪郭を画して呉れた最初の詩人であつた。何とならばホメロスの「マルギデス」は、喜劇に対して、丁度「イリアス」や「オデュセイア」がトラゴーディアに対するやうな関係に立つからである。けれども、トラゴーディアと喜劇が出現すると同時に、軽卑な題材の好きな詩人は、そしり詩の代りに、喜劇の作家となり、荘重な題材の好きな詩人は、叙事詩の代りに、トラゴーディアの作家となつた。これら新しき形式の芸術である所のトラゴーディアと喜劇とは、叙事詩そしり詩よりも、より偉大な、より価値あるものだつたからである。
 *4トラゴーディアが、その構成諸要素に於いて、今や、実際、十分なる発達を遂げしや否やの問を考察し、そして、理論上並びに劇場に関連して、これを結論することは別個の問題である。
 トラゴーディアは、とにかく、即興詩に端を発した。喜劇もさうである。トラゴーディアはディツラムボスのコーラス団長〔即ちディツラムボスの作家兼作曲家〕を以て始まり、喜劇は、未だに、吾吾の多くの都市に於いて監修として残つてゐる、*5陽物崇拝歌の作家を以て始まつたのである。而して、トラゴーディアは、その後、相続く作家達が、以前のものを、一歩一歩改良して行つたことに依つて漸次、光輝あるものとなつた。実に、それは幾多の変遷を経て、初めてその進展の足を停めた。その時、それはその本然の形式に到達したのである。俳優を一人から二人にしたのはアイスキュロスであつた。アイスキュロスは、また、コーラスを短縮し、対話をその首脳部とした。ソフォクレスによつて、俳優は三人となり、背景が工夫された。それは、また、適当な長さを持たされた。短い物語や、巫山戯《ふざけ》た言ひ方が棄てられ、従来の*6羊人劇から脱け出て、やつと、品格あるものに進んだのである。さうして、その韻律も長短脚から短長脚に変じた。最初、長短脚四韻律が用ひられたのは、それが、当時羊人劇であり、今よりも、ずつと、舞踊の勝つたものだつたからである。然し、対話が入つてくると共に、自然が、自ら、適当な韻律を発見した。なぜなら、短長脚は最も話しよい韻律だからである。その証拠に、吾吾が互に話し合ふ場合は、動もすれば、短長脚になり易く、*8六脚韻律になることは稀れであり、それは談話の調子が外れた時のみに限られる。尚、今一つの変化は*9挿曲(エペイソディオン、近代劇の「幕」)の数が多くなつたことである。その他、戯曲の装飾的部分、及び、其来歴に就いては、既に、説明がすんだこととして置かねばならぬ。これを、こまごま調べて行くことは、恐らくは、大仕事であらうから。

 

■訳者解説

 

 プラトンが理想的国家から芸術を放逐しなければならぬといふ根本的理由は「国家論」第十篇五九六-六〇二に於いて見出される。其處に於けるプラトンの芸術排斥論は大要次の如きものである。詩人や画家は、大地、樹木、人間といふ如き、物象に鏡を向けてゐるのである。さうして、自分の周囲の世界の映像を捉へようとしてゐるのである。所が、彼等詩人や画家のもでるをなしてゐる、彼等の周囲の世界そのものが、既に、理想の世界の映像である。実在は観念の世界にのみ存在し、感覚に映る吾吾の周囲の現象世界は、すべて幻影で、高高天上の主型を、吾吾に、仄めかしてゐるものに過ぎない。であるからして、現象世界の方が、芸術的模倣の世界よりも、一歩、実在世界に近く、結局、芸術は、模写の模写で、真実の世界より三重に遠ざかつてゐるものである。而して、詩人にして、彼等が模倣してゐる事物に就いて、真の知識を有するならば、彼等は、当然、単に歌ふのみには慊《あきた》らずして、自ら、それに生きる筈である。頌歌を綴る人たらずして、頌歌を受くる人になつた筈である。例へば、ホメロスは政治を歌つてゐる。然し、彼は、政治を単に歌ふだけで、政治に生きはしなかつた。それは、ホメロスが政治に就いて真知を得てゐなかつたからであらねばならぬ。もしさうでなければ、彼は、自ら、政治に生き、世の人人も、また、彼をして、遊吟詩人として彼方此方を彷徨する儘に打ち捨て置かなかつたであらう。故に、吾吾は次の如く推論し得る。即ち、彼等詩人の徒は、単なる模倣者であつて、事物の外形のみを写し、事物の真理には達し得ない輩であると。詩人は、単に事物の外形のみを知つて、それらの実在を知らない画家のやうなものである。例へば画家は手綱と馬銜《はみ》とを描く。然し画家は、手綱や馬銜の表面上の知識を掴んでゐるに過ぎない。手綱や馬銜の本質を知つてゐる者は、勿論画家でなく、また、それらの工匠でもなく、実は、それらの使用に熟達したる騎手のみであらねばならぬ。故に手綱や馬銜の優れたること、美なること、真なることは、それらの本質を知る騎手のみの知る所であらねばならぬ。さうして、工匠はそれらの器具の善悪に関する道理を騎手から説明され、騎手の差図通りに作るのであつて、工匠はそれらのものの本質的知識はなくとも、それらに就いて正しい信念を有するのである。然るに、画家は、本質的知識も、またプラトンに拠れば、知識より一段下の認識方法である所の正しき信念もなく、単に外形を模倣しつつ作品を作り出すのであるから、自己の制作の優れたりや、美なりや、真なりやを知る由もないのである。それにも拘らず、無智なる群衆は、かくの如く無智なる画家の描いたものを善しと見る。かくの如く、工匠よりも一段と低い所に位し、工匠の作りしものを模倣せる画家の作品は、色や形の幻覚を以て、無智なる群衆を欺瞞するのである。之等の模倣は、一切、吾吾の感覚を相手にしてゐるのである。而して、感覚は吾吾を惑はし欺く。間近く見て大なる物体も、遠ざかれば、小さく見えて了ふ。真直なるものも、水中に置けば、歪んで見えるのである。凹面も色の幻覚に依り凸面に見えるのである。吾吾の感覚は、かくの如く、幻覚に対して無抵抗であつて、絵や詩は、吾吾の此弱点をこそ覘《うかが》ってゐるのである。かく、吾吾の感覚は吾吾を、絶えず、錯誤に陥れようとしてゐるが、吾吾をかくの如き錯誤から救ふものは、吾吾の正しく測り正しく数へる理性であると。以上の如く、プラトンは、芸術は真知を得てゐない者に依り作られたる、吾吾の周囲の経験世界の模倣的映像に過ぎないと言ふのである。然し乍ら、プラトンが芸術を経験世界の模倣であると言ふ場合芸術は、例えへば、写真の如き、外界の単なる奴隷的模倣と解したのではないことに注意すべきである。芸術が事物をあるがままよりは、より美しく描くことの可能は、同じく「国家論」第五篇四七二に於いて、プラトンに依り認められてゐるのである。故に、プラトンが以上の如く芸術を蔑視したる理由は、如何に芸術が理想化的模倣をしようとも、それが、吾吾の周囲の経験世界から暗示されしものである限り、イデアの世界の映像の映像であり、而して、また、それが現象的な表現に存する限り、イデアの世界に高昇し能はぬといふ所にあらねばならぬ。
 然るに、アリストテレスは「詩学」第四章に於いて、模倣は人間の本性であり、悦びであると言ひ、一切の芸術がこの人間の模倣性と、模倣的産物に対する悦びから発生したと説き、而して、之等の二つの人間の本性の上に、芸術に就いてのプラトンに対する反対論を立脚せしめんとしてゐるのである。而して、アリストテレスが芸術の生れる一原因と見做す所の人間の模倣性の模倣の意味は、彼が次に「人間の最初の知識は模倣を通してなさる」といふ言葉から推知し得よう。吾吾のすべての知識の最初の手ほどきは、文章を学ぶにしろ、音楽を学ぶにしろ、絵を学ぶにしろ、お手本を真似ることに依つてなされるといふ意味から推して、それは、原型の、それ自身にあるままの姿を再現する意味の模倣であらねばならぬ。故に、アリストテレスの考ふる芸術の起源は「プリミティヴな人間が、偶〻この奴隷的模倣性に駆られ、そして、何の意図もなく、例へば、鳥を描いた。然るに、豈図《あにはか》らんや、そこに描かれた鳥はある神秘的な悦びを与へた。この悦びが多くの模倣的産物を生んだ」といふのであるが、模倣的産物の悦びを一度び意識したる者が、この悦びを目的に、次にする模倣は、模倣性に駆られてする単なる模倣でなく、一つの目的を持つた模倣でなければならぬ。それ故に、アリストテレスが芸術の生れる第二の原因として、人間すべてが模倣的産物を悦ぶ点を主張する場合の「模倣的産物」といふ言葉に於ける模倣の意味は模倣性の模倣とは違ひ、ある一つの目的の為の模倣であつて、それは、決して原型を忠実に描くことに重点が置かれた模倣でなく、それから生れる悦びに重点を置いた模倣でなければならぬ。この点と、さうして、アリストテレスが、次に、人間が模倣的産物を悦ぶことの証拠に絵を見る悦びを挙げてゐる点から推して、彼の言ふ模倣的産物とは、事物の客観的にあるままを具象しようと試みたものでなく、単に事物の吾吾の心に映る姿を具象せんとしたものであることが明かである。実際アリストテレスの考ふる優れたる肖像画家は「容貌の特徴を写すと共に、実際よりも美しく描き、而して、実物に似たるものを作る」(「詩学」第十五章九一頁)ものであることから推しても、彼の考ふる模倣的産物は原型のあるがままを最も忠実に描いたものでないことが分るであらう。故に、吾吾が悦びを感ずる絵、これを押し拡めて言へば芸術は、対象のあるがままを形に現さんとするのでなく、対象と似たものを現はさうとするものであつて、かるが故に、芸術は、プラトンにとつては、イデアの世界の映像を模倣せんとして、到底それに及ばないもの、即ち映像の映像であり、これに反して、アリストテレスにとつては、たとへ、吾吾の眼に苦痛を与える如き事物も、一旦絵になれば、それが実物の単なる模倣に過ぎないが為に、却つて悦びになるのである。即ち、アリストテレスにとつては、芸術は対象の所謂「模倣」に過ぎなければこそ、吾吾をして、実感の場合に経験する所の、吾吾の心を撹乱する不安な情報から解放せしめ、かくして「最も低級なる動物や人間の死体といへど、吾吾は、その絵姿を見て悦ぶ」のである。
 然しながら、アリストテレスは、芸術が現実世界の圧迫を取除き、さうして、吾吾の審美的情緒をして、現実世界から独立したる一つの自由の天地に遊ばしむる為の悦びであるとは言明してゐない。而して、芸術の起源を説き、絵画鑑賞のプリミティヴな仕方に触れ、そこに、芸術の悦びの根源を探らうとしてゐるアリストテレスが、芸術の悦びを、上の如く近代的に説明しないことは理の当然と言はなければならぬ。アリストテレスは模倣の悦びをかく説明する。「絵を見る悦びは、吾吾が絵を見ると同時に、あるものを学び知るからである」と。さうしてアリストテレスは、肖像画の鑑賞の仕方をその例に引いてゐるが、吾吾はこの場合の事実を一般の絵の場合に押し拡めることが出来よう。アリストテレスは言ふ。絵の悦びは「例へば、この絵の人物は誰誰であると言つたやうに、事物の意味を推知するからである」と。アリストテレスのこの言葉の真意は、また「詩学」の他の個所に於ける彼の言葉から推して知ることが出来る。彼は、前に既に引用した如く、優れたる肖像画家は「容貌の特徴を写すと共に、実際よりも美しく描き、而して実物に似たるものを作る」と言ふ。また、第九章に於いて、詩は普遍性を描くと言ふ。言ひ換へれば、芸術は描かんとする原型の姿から一時的の分子や偶然的な分子を除き去つて本質的なものを示さうとするのであると言ふのである。かくの如く、一方に於いて、一時的や偶然的なる不純なる分子を除くために、絵は実際よりも純化され、従つて美しくなるのである。アリストテレスは、また、第二十五章に於いて、詩人は「あるげきまま」を模倣し得、即ち、詩人は現実の世界に於いては、実際に、そこまでは現はれてゐない所の理想の形を描くことも出来ると言ふ。これを絵の場合に言ひ換へれば、偶然の障害、乃至は質料(Matter)自身の内面的欠点に依り十分表現されなかつた所の理想の形相(Form)を描き出す事が出来るといふのである。故に、アリストテレスが、「実際よりも美しく描く」といふ意味は、他方に於いて、描かれんとする対象が志す究極の形、即ち理想の形相を写し出すことを意味してゐると言へよう。かく考へて来る時に初めて、アリストテレスの「この絵の人物は誰誰であると言つたやうに、事物の意味を推知する」といふ言葉が、実際の人物に於いて不完全に表現されてゐる、その人特有の理想の形を絵に於いて見、その人の真の姿を初めて、はつきり学び知ることを意味されたことが明かになるであらう。而して、希臘《ギリシャ》人にとつては、ものを知る悦びは無上の悦びであつた。以上の肖像画家の例から推して言へば、アリストテレスの考ふる所の絵の悦びは、絵が理想の形を現実に於けるよりも、より完全に吾吾の眼の前に描き出して呉れ、吾吾は絵に於いて、初めて、ものの真の姿をはつきり学び知るが為の悦びでなければならぬ。
 かく考察して来れば、アリストテレスが言ふ「模倣的産物」は原型それ自身にあるままの姿でなくして、吾吾の心に映る原型の理想の形を描いたものであると言へよう。従つて、アリストテレスにとつて、模倣的産物はプラトンの言ふ如く、映像の映像でなくして、現実を飛び越え、現実世界よりも一段と実在の世界に近きもの、即ち、イデアの世界の純粋なる真の映像でなければならぬ。約言すれば、アリストテレスにとつては、自然よりも人の芸術の方がより以上に真実なのである。これに反して、人の芸術が外界の諸相にかかづらつてゐる限り、芸術の世界は吾吾の周囲の現象世界よりも劣等なる世界であり、而して「最も偉大なるもの、最も美しきものは自然と偶然とに依つて作られ、より劣等なる者は芸術(tekhnē)に依つて作られる。芸術は、自然から、より偉大なる、そして、原形的なる創造物を受けつつ、所謂、こしらへものと言はれる劣等なる品を細工す」(「法律」第十篇八八九)と言ふプラトンの態度は、人の芸術よりも自然に重きを置いた態度と言ふべきである。顧みれば、プラトンの「人よりも自然」といふ立場からの芸術の価値否定論を反駁するには、是非「自然よりも人」の立場を要し、偶〻この立場のアリストテレスから芸術肯定論が生れたことは当然と言はなければならない。

 

■諸家の読方の比較

 

 一四四八B三〇(六四頁六-七行) バイウォータアは Ac のまま 'en hois [#斜体]kata to harmotton[#斜体終わり] iambeion ēlthe metron' を採用し "In this poetry (of invective) [#斜体]its natural fitness[#斜体終わり] brought an iambic metre into use." と訳してゐる。ファーレン、マルゴリウス等のテクストもそれと同じである。ブチァはアルデュス版に従ひ [#斜体]kata[#斜体終わり] の代りに [#斜体]kai[#斜体終わり] を採用し、そしてスタールに従ひ [#斜体]iambeion[#斜体終わり] を重複語として削除して '[#斜体]The appropriate[#斜体終わり] metre was [#斜体]also[#斜体終わり] here introduced' と訳してゐる。グーデマンはブチァと同じ意味に訳してゐる。
 一四四九A一九(六五頁一二行以下) バイウォータアの読方は "eti de to megethos ek mikrōn muthōn kai lexeōs geloias dia to ek saturikou metabalein opse apesemnunthē, ...' "(Tragedy acquired) also its magnitude. Discarding short stories and a ludicrous diction, through its passing out of its satyric stage, it assumed, though only at a late point in its progress, a tone of dignity; ..." である。 [#斜体]to megethos[#斜体終わり] の次に句点コロンを置き、此句を一四四九A二八(六六頁四行)の 'eti de epeisodiōn plēthē' ( "(Another change was) a plurality of episodes or acts")に照応せしめ、悲劇の変遷の一項目であると解釈したのはバイウォータアの創意であるやうである。リッター、ファーレン、ツワイニング、ステッヒ、ブチァ、グーデマン何れも其處へコロンを置いて読んでゐない。ブチァは下のやうに訳してゐる。 "Moreover, it was not till late that the short plot was discarded for one of greater compass, and the grotesque diction of the earlier satyric form for the stately manner of Tragedy." 即ち、バイウォータアが [#斜体]to megethos[#斜体終わり] を「それ(トラゴーディア)に適当した大きさ」と解釈してゐるのに反し、ブチァは、それにさういふ重みのある意味を含ませないで、単なる量的比較の意味として訳してゐる。

 

■訳注 ※書きかけ

*1 バイウォータアはアリストテレスが此処に挙げてゐる「二つの原因」を人間の模倣性と模倣された物に就いての悦びと解するのである。ティリット([#斜体]De Poetica[#斜体終わり] p.102. 1817)、ファーレン([#斜体]Beiträge zu Aristoteles Poetik[#斜体終わり] p.11. 1865)、ブチァは此「二つの原因」を一つは人間の模倣の本能であり、一つは調和及び律を悦ぶ本能であると解してゐる。深田博士は前者の解釈に賛してゐる(「芸文」十二年二号「アリストテレスの芸術論(五)」参照)。

*2 「高貴なる人達の行為」は前の「高貴なる行為」と同義異語でない。プラトンの「国家論」第三篇三九六「優れたる俳優は優れたる人の堅実なる、さうして、賢明なる行為を演出することを好むであらうが、優れたる人の病に罹り、もしくは、恋愛に陥り、もしくは、泥酔し、もしくは、その他不祥なる出来事に出会つた時の姿を演出することを好まないであらう」参照。

*3 頌歌(humnos)は神々を讃美したる詩で、褒詞(egkōmion)は優れたる人人を讃美したる詩であることがプラトン「国家論」第十篇六〇七に書いてある(バイウォータア註)。ウィラモウィツはヒュムノスをアテーナイの保護神アテーネー女神を祝ふ祭典Panathēnaiaに歌はれる叙事詩的合唱歌と解する(「ギリシャ悲劇序論」八〇頁)。

*4 アリストテレスは、悲劇が今や全体から見れば、芸術として完全なる形にまで進みたるものと見做してゐるが、悲劇を構成せる要素の部分部分に於いて、今や、改善の余地なきや否やの問題に関しては、此処に議論することを避けてゐる。何とならば、それは芸術に就いてプラトンに対する反対論を立てることを眼目とするこの「詩学」の本論とは、全く別個な問題だからである。

*5 喜劇 Kōmōidia といふ名は、トラゴーディアといふ名が出来てから後間もなく出来た。即ち、アテーナイではディオニュソスの祭りに以前から行はれてゐたところの民衆の祭礼行列が、四六五年、国家的行事として制定され始め、その行列がKōmosと呼ばれ、それが神域へ行進する際歌はれる歌がKōmōidiaと名づけられた。元来ディオニュソス祭事はデメテール祭事と共にアティカ人に対して、オリムピック神神の祭事とは違つた、ある積極的な力を以て活発に働きかけた。ディオニュソスの神自身が積極的に活動して、地上をあちこちさすらひ、彼の恵み、就中葡萄を数多の諸民族に分ち与へたのみならず、彼の祭儀を弘く伝播し、不信仰者征伐さへやり、すべての人人から彼の神性を認めしめ、そして彼の崇拝信仰の個人的実践を強制した。実にこの神のアティカ民族に対してもつた勢力は、嘗て古代の民俗宗教に起つた以上のものであつたと言はれる。それ故、アテーナイ人は上下の階級を問はず、公私ともそれぞれにディオニュソス祭事を営んだ。コーモスはその祭事の一つで、民衆が一つまたはそれ以上の行列を作つて、恐らくは自分達の顔を人にみられないやうにと仮装し、そして竪笛を吹奏しながら、先頭には万物生成の象徴としての陽物(phallos)のつくり物を高く掲げ、陽物崇拝歌を歌ひつつ行進した。この陽物を運ぶ男達は勿論、この偉力ある象徴物について無遠慮な言葉を盛んに言ふ好機を見逃さなかつたであらう。その中に、彼等はこの行進の際、祭礼やトラゴーディアの見物に集つた民衆を相手に捉へて、その前に進み出て、アテーナイ市民に利害関係ある時事問題に触れて、揶揄もしくは罵言を浴びせるに至つた。そこにアテーナイの喜劇の萌芽が存する。以上はウィラモウィツに拠つたものであるが、この喜劇発生の説明は、ヘイグ並びにモールトンの所説とも一致してゐる。
 喜劇がかうして誕生したが、その当初二十年間の作品は何も残存しない。然し間もなくアリストファネスなどが出て、吾吾が知るところのギリシャ喜劇を書下ろした。それらの喜劇は初めの中はコーモスの陽物歌やコーモス識者の民衆への話しかけなどを固守してゐたが、やがてさういふ要素は消失して、コーモーディアは漸次愈〻吾吾の所謂喜劇へと進展した。そしてトラゴーディアが凋落した後は、コーモーディアはその発生の動力であつたところの宗教的要素を失つた代償として、前者からの遺産の一部分を受け継いだ。アリストファネスから丁度百年後に、アテーナイのメナンダアの喜劇が芸術的に完成されるが、この人生の写実を試みた喜劇は、むしろエウリピデスのトラゴーディアの真性の相続者であつて、アリストファネスの喜劇のそれではないと、ウィラモウィツは言つてゐる。

*6 ウィラモウィツに拠れば、ギリシャ悲劇の発生に就いて、今日吾吾の眼で直接に研究する材料としては、残存する僅かの古代ギリシャの記録、刻石文、もしくは昔の人が自分達の観察を誌して後世に残した文献があるのみである。就中、「詩学」四章の此処でアリストテレスの言つてゐることが非常な権威を以て物を言ひ、アティカの悲劇の根本的知識を与えてゐる。「詩学」は元来、叙事詩や戯曲に関する一つの理論を、吾吾に与へようとするのが目的で説かれたもので、戯曲の歴史的考証の論文ではないから、アリストテレスはトラゴーディアの起源、発展については極めて簡単に要点のみを顧みて述べてゐるに過ぎない、然し、彼が此処で言ふ所の、トラゴーディアはディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスのeksarchos、即ちコーラス団長、即ちその作家兼作曲家から発生したこと、最初は活発なダンスのリズムと剽軽な言葉で演出された羊人劇(Saturikon)であつたをいふこと、次にアイスキュロスが第二の俳優を使ひ始め、合唱団を仕手役《してやく》から[#傍線]わき[#傍線終わり]役へと後退させ、第三の俳優の登場はソフォクレスに由来するといふこと、以上はトラゴーディアの動かぬ歴史的事実である。然らば四世紀のアリストテレスは六世紀以来のトラゴーディアの発展に関するさういふ歴史的知識をどこから得たか? 彼が六世紀時代に誕生した戯曲を一つでも読んでゐたかどうかは、大いに疑問なのである。第一の俳優を初めて使って、トラゴーディアに将来の大発展を可能ならしめた詩人テスピスは、アリストテレスにとつては既に名前だけが残つてゐるに過ぎなかつた。然し最古の戯曲の性質に就いて知識を得る為に、彼は絶えず古代文献を読むことが出来た。就中重要なものは、演劇上演の事務を委任されてゐたアテーナイの官吏の訳書に、豊富な信頼に足る所の記録文書が残されてあつた。それに拠つてアリストテレスは、各戯曲の上演年月日、その他詳細の顛末を知ることが出来た。また、アテーナイの諸神殿に散在した奉献品などで、波斯人の侵入後尚安全に残存し得たものは彼により十分利用されたことは明かである。恐らくはアリストテレスの学校は、さういふ参考品を集めて公衆の一覧に供へ、演劇博物館とも言ふやうなものまで設けられてゐたと想像される。そして、さういふ参考品の記録や石文でテスピスの最初のトラゴーディアは五三四年のディオニュソス大祭に上演され、五〇八年には最初のディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスが上演され、四六五年には演劇の新しい組織が企てられ、最初の喜劇が上演されたことなどが、これも動かぬ事実として分明するのである。然し、只これだけの事実からでは、アティカのトラゴーディアの全貌は分らない。もつと他から材料を求めなければならぬ。ウィラモウィツは以上の立場から、一応、トラゴーディアが丁度喜劇が発生したあのディオニュソス祭の謝肉祭的仮装、舞踏、即興的演技から発生したのではないかと吟味してゐる。
 モールトン(「古代古典劇」三~五頁)もヘイグ(「ギリシャ悲劇」一三~二二頁)もトラゴーディアを生んだディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスを、ディオニュソスの祭りの際にその崇拝に集つた人人が羊人に扮して、この神に捧げられた牲肉の燻ぶる聖壇の周りで、彼の伝説的逸話に触れて歌舞したところの合唱的舞謡歌として解してゐる。そして、このディオニュソス崇拝のディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスは少なくとも七世紀前から一種の民謡としてギリシャに存在し、農民の祭りの度母に歌はれて来、七世紀末レズボス生れのドリア人アリオンによつて、コリントに於いて、それは秩序と整頓とが与へられ、羊人|舞謡《コーラス》者の数が五十人に定められた。また、彼の手で、舞謡曲に含まれたる物語を説明したり敷衍するために、韻文の対話が、時時識者と舞謡者の間に交はされた。そして、この対話がトラゴーディアの対話へと発展したのであると、彼等は言つてゐる。
 ウィラモウィツはアティカのトラゴーディアも喜劇も、登場人物の行動で描かれるところの所謂ドラマティクの要素はそれらの本質的なものでなくして、単に随伴物に過ぎないといふ点に先づ吾吾の注意を向けてゐる。殊にトラゴーディアのエペイソディオン即ち「挿曲」は、丁度現代劇の「幕」とか‘scene’に相当するが、実はコーラスが歌ふ歌詞の合間へ挿入されたお景物に過ぎない。トラゴーディアとコーモーディアとを目して直ちに戯曲と吾吾が呼ぶ程に、その孰れもがドラマティクな対話や動きが主体とはなつてゐないのである。両者は孰れもディオニュソス祭の宗教的行事の演技で、すぐまた同種属の演技であるディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスが第三の同権者として入つてくるのである。さて、コーモーディアが前述の如く、ディオニュソス祭のアティカ人の行進、即ちコーモスから発生したといふことは、動かぬ事実として誰人も異論はないが、トラゴーディアの起源については、モールトンやヘイグの説明のやうに簡単には解決されないやうである。前にも述べた如く、ディオニュソス祭の行進に際して、一人二人の単独にものを言ふ者が登場し、その活発な場面の進行中、陽物歌即ちディオニュソス崇拝歌は中絶された。かやうに一度び対話が入つて来ると、そのお手本となつたものはトラゴーディアであつた。且つ、喜劇がアテーナイの国家的行事として制定された時には、それは五、六十年先輩のトラゴーディアをすべてお手本として仕組まれた。間もなく、前後連繋の無かつた、ばらばらの場面が廃されて、只一つの終始一貫した行為を演出することが試みられた。そして五世紀後半から四世紀にかけてアリストファネスなどが出て、やつと今日吾吾の知るところのコーモーディアが現はれた。これらの本格的コーモーディアには最初は陽物歌の名残りが濃厚に存在し、コーラスも宗教的歌詞も出てくるが、漸次アティカのディオニュソス祭の行進であるところのコーモスや、その途中の対話や陽物歌を歌ふ習慣などは消失して行つた。アリストファネスから丁度百年後に至つて、初めてアティカのコーモーディアは吾吾現代人の所謂喜劇となつた。即ちアテーナイ人メナンダーの喜劇が、アリストテレスの「詩学」などで説かれた演劇論の影響が大分与つて完成されたと言はれてゐる。メナンダーの喜劇は近代の戯曲と比較され得るもので、芸術的目的を有し、現実の人生から材を取って、人間社会を喜劇の鏡に写した、真理の映像であつたと言はれてゐる。之に反してトラゴーディアは、コーモーディアよりも先輩であり、シシリイやアテーナイの喜劇に対し、その戯曲的部分に形を与へたのであるが、今日残存するあれらの五世紀の三大悲劇詩人の作品にまで発展した後は急激に衰凋して了ひ、四世紀には何等見るに足るもの無く、遂に没落して了った。即ち、アティカの悲劇はその本質的な要素に於いて、喜劇のやうに単に芸術的に、どこまでも発展することを許されなかつた。あるものが存してゐたのである。そのあるものとは何であるかは第六章註釈(一八一頁参照)に於いて述べられるから、此處では暫く措き、トラゴーディアがディオニュソス崇拝の民衆舞謡から発生した筈はないと主張するウィラモウィツの所説を紹介したい。
 即ち、コーモーディアはディオニュソス祭の民衆舞謡から誕生し、そしてそれが出来上つて了ふと、その前身のコーモスに関係するものは、陽物歌も舞謡団も消失して了ふのに、その同じ舞謡団がトラゴーディアをコーモーディアよりも五、六十年も早く生んで、そしてそれを完成させて、尚それに結びついて存続するわけがないと。且つディオニュソス祭事は、その姉妹祭典であるところのデメテール祭の場合と同じく、女子が主として参与した行事で、かの祭礼行列のコーモスに於いてさへも、もし陽物を掲げて行進する慣習が存在しなかつたならば、そこへ男子は現はれなかつただらうとウィラモウィツは言つてゐる。アテーナイのディオニュソス祭の祭儀長は女子に任命され、この神の取巻連中はエウリピデスの戯曲に於いてはいつも女性で、また、絵画にてもこの現象が常に見出され、女子に取巻かれてゐるディオニュソスの姿は古代以来の伝統的描写で、彼等取巻きを呼ぶ名であるところの Maenad と言ひ Bacchante と言ひ、いづれも女性を意味する。勿論、六世紀のアテーナイ人がディオニュソス祭に、羊人に扮装して舞謡したり、行進したなど考へるのは単なる空想に過ぎない。それ故、アティカのトラゴーディアにては、コーラスがむしろその本質的なものであるが、そのコーラスがディオニュソス崇拝の祭事の民衆舞謡から発生したといふ経路は全然発見出来ないと言ふのである。
 かやうに、トラゴーディアのコーラスとディオニュソス崇拝の民衆舞謡との結縁は、全然発見出来ないといふのがウィラモウィツの意見である。アリストテレスはトラゴーディアをディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスから誕生したと言つてゐるが、そのディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスはディオニュソス崇拝の民衆的合唱舞踏歌を意味するところのディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスではあり得ないと言ふのである。実際、トラゴーディアの起源の問題の困難は、アリストテレスがそれはディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスの合唱団長から生れ出たとはつきり言つてゐるけれども、そのあるものとは何dディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスがトラゴーディアよりも一層不分明なもの、否、今日全く分らないものである点に存する。ディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスは前にも既に述べた如く、最初は飲酒家の歌で、憂いを払う玉箒と言つた工合に酒の力を讃美したものであつたが、六世紀にアリオンがコリントに於いて、それを羊人コーラスが歌ふ合唱歌の形に発展させた。然しアリオンのこのディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスは今日全く残存しない。只それが当時コリント周辺の地方に歓迎され流行したから、人々は五世紀のピンダロスの今日残存するディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスの断片に頼つて行つて、それから前世紀のものを窺ひ知らうとするのである。ところが、ピンダロスのものは自由韻律の点を除けば、他の種類の合唱歌と差別のつかぬものであると言はれる。他方、当時トラゴーディアは独立してディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボスと並び存在し、明かに自由韻律をもたず、他の種のコーラス歌と共に、それと対立してゐた。トラゴーディアは周知の如く、その合唱歌に関する限り、韻律と言葉の点に於いては、ピンダロス等のディツラ[#下付き小文字]ム[#下付き小文字終わり]ボス以外の他の合唱歌と符号する。それ故ウィラモウィツは、アイスキュロス等の悲劇の合唱歌の源泉がむしろレズボスのアイオリア詩人サフォなどの叙情的合唱歌に見出されるのではなからうかと、そこへ彼の吟味を進めてゐる。サフォ(六世紀)は乙女等の合唱の為に、或は結婚祝宴の席上の若者等の為にコーラス歌を、或は種種なカルトの場合に歌ふ行進合唱歌を作つてゐた。レズボス人テルパンドロスにつづいて、七世紀後半に小アジアからスパルタに来たアルクマンはスパルタの宗教的催しの場合に歌はれる合唱歌に於いては「私」といふものを引込めてはゐるが、それでも概してコーラスは彼の道具であつて、彼自身の主観を彼の歌に帯ばしめ、時には彼自身のある思慕、ある飢ゑを表現した。かやうにして詩人の個性を表現する合唱歌の詩形が確立し、そこに個性や主観の表現が達せられてゐる。アルクマンの合唱詩はスパルタの支配階級の騎士等に属さず、その周辺の農民の文学であつた。彼の詩に於いて英雄伝説は、一般のラコニア人の愛国心が常に要求する程度以上に強く織込まれてゐないが、七世紀から六世紀に亙るステシコラスは、彼の合唱詩の中へ英雄伝説を内容として取上げ、スパルタの上流社会を聴衆として獲得した。ホメロス叙事詩が伝播されなかつたシシリイ生れのこの詩人は、合唱叙情詩を伝説を盛る容器として、矢張叙事詩を持たぬスパルタに流行させた。これらの合唱歌は神々や人々を崇拝するあらゆる機会に、また、格別の祭日でなくとも、人々が偶〻集り会して機会と気分とが与へられたならば、常に合唱団によつて歌はれた。彼等は舞踏や行進につれて、予めその為に作られた歌を歌ふ。この歌は常に詩人自身の文句で、詩人はコーラスを通して自分の主観を表現した。尚注意すべき点は、ステシコラスやアルクマンの合唱歌の言葉は、その内容と様式の混成的性質から、アイオリアイオニア、ドリアの三種のギリシャ語の混成から出来てゐることである。■■※かきかけ■■

*7 「修辞学」第三篇一四〇八Bに於いて、長短格はおどけたリズムであつて威厳と荘重とを全然欠いていると云はれてゐる。長短格四韻脚はその代表者である。

*8 六脚韻律(hexametron)は英雄詩韻脚もしくは叙事詩韻脚とも呼ばれ、長短短格に長長格を交へる。「修辞学」第三篇一四〇八Bに於いて、この英雄詩韻脚は荘厳なるリズムであつて会話的語調に欠くと云はれてゐる。

*9 挿曲(epeisodion) 「詩学」第十二章注(一)参照。

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換した:
・技倆→技量
・輪廓→輪郭
・劃して→画して
・巫山戯た:(ルビ振り)

※※下線部は元の訳文では傍点。