アリストテレス『詩学』第八章(松浦嘉一訳)

■■ 第八章 ■■

 筋はある人人が想像してゐるやうに、それが一人の人を取扱つてゐるからとて、そこに統一あるとは言へない。数限りない多くの出来事が一人の人に起る。さうして、それらの出来事のある部分は統一され得ない。同様に、人一人がする行動は、数多あつて、それらを一つの行動に統一することは不可能である。それ故、吾吾は、へラクエス物語及びテセウス物語、その他類似の詩を書いた詩人達が誤解をしてゐたことを知る。これらの詩人達は、ヘラクエスは一人の人であつたから、彼に関する出来事は、すべて、統一ある一つの物語を作るものと想像してゐた。ホメロスは外のあらゆる点に於いても余人に優るが、矢張、此点をも、習得の技巧に依つてか、もしくは先天的にか、十分に理解してゐた。ホメロスは「オデュセイア」を書くに際して、その主人公に起つた、すべての出来事を描かなかつた。主人公はパルナソス*1の山に於いて傷つき、また戦いに召し出されようとした時、狂気を装つてゐた*2。しかも、この二つの出来事は相互に必然的、もしくは蓋然的なる連絡もなかつた。それ故、ホメロスはあらゆる出来事を描かないで、吾吾が説いてゐる如き種類の統一を持つた、ある一つの行動を「オデュセイア」の題材とした。また「イリアス」に於いても同様であつた。実際、他の模倣技術〔芸術〕に於いて、一個の模倣は常に一物の模倣であるやうに、詩に於いても、物語はそれが人間の行動の模倣である以上、一つのもので、しかも、全き行動を描いてゐなければならぬ。而して、その全き行動を形作る所の数個の要素は、極めて、密接な関係に融合され、要素のどれ一つでも所を変へ、もしくは引き抜かれたならば、全体は支離滅裂するやうに組立てられねばならぬ。何とならば、有つても無くても、何等の相違も現はれない要素は、全きものを作る所の真の分子でないからである。

 

■諸家の読方の比較

一四五一A一七 ブチァは‘polla gar kai apeira tōi heni sumbainei, ex hōn [eniōn] ouden estin hen’とスペンゲルの削除に從ひ“For infinitely various are the incidents in one man's life which cannot be recduced to unity”と譯してゐる。バイウォータアはAcのままにeniōn(some)を入れて讀んで“An infinity of things befall that one man, some of which it is impossible to reduce to unity”と譯してゐる。此「あるものは」といふ言ひ方は、アリストテレスに於いては、珍らしくない一種の「控へ目な言ひ方」であると、バイウォータアは言つてゐる。“The sense is: In the infinite variety of things that befall the individual in the course of his life there are some [i.e. many] which it is impossible to bring into relation with the rest, as parts of one connected whole.”--Bywater. アラビア譯はAcと一致してゐる。


■訳注

*1 「オデュセイア」第十九篇三九二~四六六に於いて、オデュセウスがパルナソスに彼の祖父母を訪ひ、狩りのもてなしを受け、一匹の埜猪を爲留め、其時、其埜猪に傷つけられた話が出てゐる。

*2 トロイの戰が初まる頃、オデュセウスは家庭の幸福を棄てて出征することを嫌つて、狂氣を裝つてゐたといふことが傳說にある。