アリストテレス『詩学』第二十六章/了(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第二十六章 ■■

 叙事詩とトラゴーディアと、いずれが、より優れた模倣の形式であるかといふ問題が起り得る。〔叙事詩偏重者*1は下のやうに論ずる〕。卑俗性のより少ない芸術が、より優れたものであるなら、さうして卑俗性のより少ない芸術は、常に、より優れた聴衆に訴へるものであるなら、あらゆるすべての人人に訴へる芸術は、甚だ卑俗であると。演技者達は、彼等自身何者かを附け加へねば、聴衆が、そこに描かれたものの意味を解しないと信ずるが故に、彼等は、絶えず動いて、多くの身振所作をしなければならぬ。例へば悪しき吹笛者達は、投輪の光景が演奏されるならば、展転と廻転し、「海鬼」(スキュラ)*2が演奏されるならば、楽長に掴《つか》み掛かる。そこでトラゴーディアは、丁度かうした性質の芸術である、近頃の俳優が前期の俳優の眼に映る、あの俗悪さを実際に持つた芸術であると〔叙事詩偏重者は主張する〕。何とならば、ミュニスコス*3は、カリビテス*4を猿と呼んでゐたし(それは、後者が、誇張した身振所作で、役をやり過ぎるやうに思はれたからである)また、ピンダロス*5に関しても、これと同じやうな評判があつたからである。けれど、トラゴーディア全体が、叙事詩に対して、丁度、近頃の俳優が前期の俳優に対すると、同じ位置に立つと彼等は主張するのである。従つて、叙事詩は、身振所作が伴ふことを要求しない所の教養ある聴衆に、トラゴーディアは教養のない聴衆に訴へると見做《みな》されてゐる。それ故、トラゴーディアが卑俗な芸術であるならそれは、明らかに、叙事詩よりも劣等でなければならない。
 〔吾吾は、以上のトラゴーディア軽侮論を二重に論駁《ろんばく》し得る〕。第一に、吾吾が主張すべきは、これらの非難は、トラゴーディア詩人の技術に触れてゐないで、只俳優の演出法にのみ触れてゐることである。何とならば、身振所作をやり過ぎることは、叙事詩吟唱(例へばソシストラトス*6の如く)並びに歌謡競技(例へばオプンティア人ムナシテオス*7の如く)にもあることである。次に、吾吾は、舞踏をさへ排斥しようと思はない限りは、凡ての身振所作を排斥することの不可を主張しなければならぬ。排斥すべきは、只、鄙陋《ひろう》なる人人の身振姿態であつて、カリピデス、その他今日の諸俳優に対して、彼等の演ずる女は淑女でないと非難あるは、ここの事である。尚吾吾は、トラゴーディアもまた叙事詩に於けると同様に、運動〔即ち身振所作〕なくしてその効果をもたらし得ることを主張しなければならぬ。何とならば、それは、単に読むばかりでその作の性質が判明するからである。それ故、トラゴーディアが、他の種種な点に於いて優れてゐるならば、それが叙事詩よりも劣るといふこの分子は、それにとつては、無くてはならない要素でない。
 第二に、吾吾が記憶すべきは、トラゴーディアは、叙事詩が有する凡てのものを持つ(叙事詩*8の韻律さへ用ひ得られる)上に、決して瑣瑣《ささ》たるものでない附加物を有してゐることである。即ち、音楽(これは明白に戯曲の悦びを生み出す真の要素である)と場面とである。次に、それは、読むことに依つて、それが演出されるを見ると同様に生き生きと、まのあたりに彷彿《ほうふつ》させ得ることである。尚トラゴーディアはその模倣の目的を、叙事詩よりも短い時間で遂げ得る。これは非常に有利な点である。より多く凝集させた効果は、時が長く引き伸ばされて、稀薄になつた効果よりも、より大なる悦びを与へるから。例へば、誰かが、ソフォクレス作「オイディプス王」をとり、これを「イリアス」と同じだけの行数に拡げたならば、その結果は、果してどんなものか考へて見るがよい。最後に、叙事詩人の模倣は、トラゴーディアほどの統一を持たないことである(この事は、叙事詩人の如何なる作からも、数多*9のトラゴーディアが作られる事実から証拠立てられる)。それ故、叙事詩人が、もしも単一なる物語をとり、これを短く描けば丈の詰まつたやうに見え、これを英雄詩のいつもの長さで描けば稀薄な感がする。叙事詩には、トラゴーディアほどに統一がないと言ふ時、吾吾は、数多の行動を仕組んだ叙事詩を意味する。例へば「イリアス」や「オデュセイア」は多くのかやうな部分を持ち、それらの部分はそれぞれ、ある長さを持つ。しかもこれらの二つの詩篇は、出来得る限り完全に組織され、出来得る限り単一なる行動を模倣してゐる。然らば、トラゴーディアがこれらの諸点のすべてに於いて、且つまた、詩的効果を齎《もたら》す点に於いても(これら二種の詩は如何なる悦びをもでなく、前に*10述べたあの特殊な悦びをのみ生むが故に)叙事詩より優れたるものならば、それは叙事詩よりもより有数に詩の目的を遂げるものとして、明白に、より優れた芸術であらう。
 トラゴーディアと叙事詩とに関して、其等の一般及び其等の種類、其等の構成要素の数と性質、及び、其等に於ける成功失敗の原因、及び、批評家の非難攻撃と、その弁明とに関しては、以上述べた如きものである。****11


■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:
孰れ→いずれ
転輾→展転
掴み:ルビ
見做されて:ルビ
論駁:ルビ
鄙陋:ルビ
瑣瑣:ルビ
彷彿:ルビ
齎す:ルビ