アリストテレス『詩学』第二章(松浦嘉一訳)

■■ 第二章 ■■


 模倣者〔芸術家〕は、行動する人間を模倣するのであつて見れば、当然、これらの行動する人間は、善き人人か、乃至は、悪しき人人でなければならない。何とならば、人間の多様なる性格は、殆んど常に、この善悪二つの何れかに由来するからである。それは人類すべてが、性格に於いて、結局悪と善に分れるからである。即ち彼等は、吾吾一般よりも、より善き人間であるか、或はより悪しき人間であるか、もしくは吾吾と同じ人間であるかでなければならない。画家を例に引けば、*1ポリュグノトスが描いた人物は、吾吾よりもより善き人間であり、*2パウソンの描いた人物は、吾吾よりも悪しき人間であり、*3ディオニュシオスの描いた人物は、吾吾と同じ人間であつた。上に述べられたもろもろの模倣〔芸術〕は、その何れもが、かくの如き三用の差別を容れるといふこと、並びに、対象を、かくの如く違へて模倣することに依つて、別個の芸術が出来上がるといふことは明かである。舞踏、竪笛楽、竪琴楽に於いてさへも、同様の差別を現はすことが出来る。またその事は、かの散文や、諧音なき韻文の如き、言葉を以てする一切の芸術に於いても可能である。例へば、ホメロスの描いた人物は、吾吾よりも善き人間である。*4クレオフォンの描いた人物は、吾吾と同じ人間である。もぢり詩(パローディア)を初めて書いたタソスの人*5ヘゲモン、及び「Deilas」の作者*6ニコカレスの描いた人物は、吾吾よりも悪しき人間である。また、ディツラムボス及び、頌歌に就いても同じことが言へる。吾吾は、それらに於いても、丁度***〔人名〕並びにアルガスが書いた***〔作品の名〕または、ティモテオス並びにフィロクセノスが書いた「*7一つ目入道(キュクロープス)」に描かれてあると同じやうに、性格を違へて描くことが出来よう。悲劇と喜劇の区別が、またかくの如き差別の下に生れる。喜劇は人間を現前の人人よりもより悪しく描き、悲劇はより善き人間を描かうとする。

 

■訳者解説

 「アリストテレスの芸術論はプラトンの其れから、而して、其れに対して、生れたのである」とは世の学者の定評であるが(「芸文」第十一年第一号深田博士「アリストテレスの芸術論」参照)試みに、この見地からして、本章を読むならば、一見奇怪なる本章は最も興味ある、そして、最も明白なるものとなると同時に、この説に対して、吾吾を首肯せしめるであらう。アリストテレスは先づ、模倣者即ち芸術家は「行動する人間を模倣する」ものであると断定するが、プラトンは「国家論」三九六に於いて「堅実にさうして、懸命に行動する善き人を模倣する」種類の芸術を奨励し、また同じく「国家論」六〇三に於いては「模倣〔芸術〕は行動する人人を模倣する」と言つてゐる。次に、アリストテレスは芸術の対象たる行動する人間を善き(spoudaios)即ち、吾吾よりより善き(beltiōn)人間と、吾吾と同じ人間と、さうして、悪しき(phaulos)即ち、吾吾より、より悪しき(kheirōn)人間とに分類してゐる。之等の「より善き人間」「同じ人間」「より悪しき人間」といふ言葉は、比較的調子の高い芸術と調子の低い芸術との差別を説明するに当つて、当時、用ひられてゐた常套語であつたと見られ得る。即ち、芸術の調子の高い低いは、その芸術の描く人物の倫理的優劣に基くといふ風な、幼稚な考へが、当時のギリシャ人一般にあつたものと思はれる。かの道徳的見地即哲学的見地であつた所のプラトン、言ひ換ふれば、善即真であつた所のプラトンも、「法律」七九八に於いて、音楽の描く対象は「より善き人間」と「より悪しき人間」との性格であると言ひ、また、同上六五九に於いては「聴衆は、倫理的に、自分達よりも、より善き性格を描いた音楽を聴かねばならぬ」といふ意味を言つてゐる。其故に、アリストテレスは「詩学」第二章に於いて芸術の対象を分析するに当つて、プラトンの用ひたと、全然同じ言葉を襲用してゐることが分る。否、同じ言葉を襲用するのみならず、それらの言葉に、プラトンに於けると同じ倫理的なる意味を含ませてゐることを認めねばならない。何とならば、アリストテレスは、続いて言ふ「人間の多様なる性格は、殆んど、常にこの善悪二つの何れかにか由来するからである。それは、人物すべてが、性格に於いて、結局、悪(kakia)と善(aretē)とに分れるからである」と。この善(aretē)と悪(kakia)とは、単に、言葉を換へたるのみで、それぞれ、前の「より善き」と「より悪しき」を意味し、而して何れも、倫理的意味であることは当然である。アリストテレスは「政治学」一三〇三Bに於いて、市民が大体に於いて、同じく善悪に二分され、この善悪の対峙《たいじ》が貧富の差別より、より多く国家に破綻を醸すと語る。この「政治学」の場合に於ける如く「詩学」の此処に於いては、善悪の二大差別が精神上並びに性格上に関してであることは明白であらう。かくの如く、やがては芸術に関してプラトン説反対論を立てんとしてゐるアリストテレスは、尚言はば、身にプラトンの衣装を纏ふのみならず、精神に、未だ、プラトンの名残りを止めて「詩学」第二章に登場したのである。
 然るに、吾吾は、アリストテレスが、かやうに、当時の常套語をそのまま採用しつつも、従来、それらの言葉の中に含まれてきた倫理的意味から脱して、新しいあるものを、それを、彼自身は、明白に体験してゐるが、うまく表現する文字が見付からないと言つた、さういふある新しい意味をそれらに盛らうとしてゐる努力を、直ちに認めるのである。何とならば、アリストテレスが芸術の対象を上述の如く分類してから、続いて、絵画の世界に触れ「ポリュグノトスが描いた人物は、吾吾よりも善き人間であり、パウソンが描いた人物は、吾吾よりも悪しき人間であり、ディオニュシオスが描いた人物は、吾吾と同じ人間であつた」と言ふ場合、之等の三つの区別が、純粋なる倫理的区別でないことは当然なことだからである。この意味は、今日の吾吾の言葉で言ふならgば、疑ひもなくポリュグノトスの絵は理想主義であり、ディオニュシオスの絵は写真であり、パウソンの絵は風刺であつたといふことに外ならないからである。それ故アリストテレスは「より良き人間」「同じ人間」「より悪しき人間」といふ如き伝統的な言葉を襲用してゐるが、彼がこの言葉で表現せんとしてゐたものは、実は伝統的な古いものでなく、新しいあるものであつたことが分るであらう。
 アリストテレスが、上に述べたる如く、芸術の対象を現はす伝統的な言葉に、従来籠められてきた倫理的な意味から脱しようとし、さうして別に新しい内容を盛らうとする努力は、彼が道徳的見地(哲学的見地と合致したる)のみから芸術を批評してゐるプラトンに反抗して、芸術を倫理的|覊絆《きはん》から脱せしめ、芸術を芸術として独立せしめんとする彼の事業の第一歩と見られよう。


■訳注

*1 ポリュグノトスは五世紀の前半の人、ギリシャ絵画史上に於いて、彼が、初めて、人物の顔に生命と性格を与へたる点にて有名である(A Companion to Greek Studies sec. 348)。彼は主として精神及び英雄を描いたと(マルゴリウスに拠る)。

*2 「パウソン」 アリストテレスは「政治学」第八篇五章一三四〇Aに於いて、若い人はパウソンの絵でなく、ポリュグノトスが描くやうな倫理的観念を現はしてゐる絵を見るやうに教へられねばならぬと言つてゐる。アリストテレスの此言葉から想像するに、パウソンは滑稽のみならず、猥褻な絵も好んで描いたやうである。同じく「政治学」第七篇十七章一三三六Bに拠ると、当時猥褻な絵画や彫刻の陳列がある淫洞に於いて公認されてゐた。エウリピデス作「ヒュポリュトス」一〇〇三行以下に於いてヒュポリュトスは下のやうに自己の童貞を主張してゐる。
For to this day my body is clean of lust.
I know this commerce not, save by the ear
And sight of pictures, --little will have I
To look thereon, who keep a virgin soul;
(A.S.Way)
(ツウァイニング註)
 マルゴリウスはKlein(Geschichte der griechischen Kunst, ii. 187)がパウソンは看板画工だつたと示唆してゐると述べ、然し彼自身はむしろ彼を風刺漫画家らしいと言つてゐる。

*3 「ディオニュシオス」は恐らく、吾吾の顔と同じ顔の神々や英雄を描いた画家であつたらう(バイウォータア註)。

*4 「クレオフォン」 「詩学」第二十二章に於いては、彼の文章は賤《いや》しいと述べられてゐる。

*5 「ヘゲモン」 アリストテレスがここでいふもぢり詩(parōidia)とは、叙事詩体の言葉と韻律とを以て、卑俗なる題材を取扱つたものを言ふのである。もぢり詩はかのエピカルモス時代のギリシャ喜劇の滑稽の一要素を成し、ヘゲモン以前にも、既に、ホメロスを戯翻した文人があつた。故に、アリストテレスの言ふ意味は、文学の特殊なる一形式としてのもぢり詩を書いた最初の人はヘゲモンであると言ふのである(バイウォータア註)。

*6 ニコカレスは喜劇詩人であつたらう(同上)。

*7 「一つ目入道」(Kuklōps)ポリフヘマスは多くの文学者に依つて取扱はれた題材であつたらしく「一つ目入道」といふ題の戯曲はエウリピデスの作以外に尚、数種あつた。何れもポリツヘマスを取扱つた(同上)。


■諸家の読方の比較

 一四四八A一五 Acは 'hōsper gas Kuklopas Timotheos kai Philoxenos, mimēsaito an tis' である。バイウォータアはティリットに倣い、gasにArgasの後半を認めたカステルヴェトロに賛し、且つ、其前に二個の脱語を認めた。即ち、ティモテオスとフィロクセノスとの関係の如くアルガスと対照される一文人の名、並びに、之等の二文人の手で、それぞれ、異る様式に取扱はれた共通の主題の名である。グーデマンの独訳も此解釈を採用しているやうに見受けられる。ブチァは、ファーレンに倣ひgasgarと修正しmimesaito an tisを削除し(恐らくは、数行後に出る同句の重複句として)「またディツラムボス及び頌歌に於いても、吾吾は、丁度、ティモテオスとフィロクセノスが彼等の「一つ目の入道」を描き違へたやうに、型を違へて描くことが出来る」の意味に訳してゐる。マルゴリウスは gas = the Earths (accus. pl.) として読み、「ティモテオスとフィロクセノスとの作なる「大地女神」及び「一つ目入道」の如く」と訳している。

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

・対峙:(ルビ振り)
・覊絆:(ルビ振り)
・淫祠→淫洞
・賤しい:(ルビ振り)
・玆で→ここで