アリストテレス『詩学』第一章(松浦嘉一訳)

詩学
アリストテレス
松浦 嘉一 訳
岩波文庫 1949年刊)

【Ingram Bywater (1840-1914) による英訳『Aristotle, On the art of poetry』(英Oxford: Clarendon Press 1909年刊) を底本としている。原著、英訳書ともパブリックドメイン。邦訳は邦訳者松浦嘉一 (1891-1967) 死亡後50年経過につき2018年1月より本国(日本)においてパブリックドメイン。】

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■■ 第一章 ■■

 吾吾は詩に就いて、詩の一般並びに詩の諸型とそれら各種の詩の機能に就いて、及び優れたる詩であるためには、筋は如何に仕組まれねばならぬか、及び詩は幾何の、さうして如何なる要素から成り立つてゐるか、同じくその他同様の研究に関するあらゆる事柄を、自然の順序を追ひ、先づ第一歩から説いていかうとするのである。
 叙事詩*1及び、トラゴーディア*2の詩、その他喜劇、ディツラムボス詩*3及び竪笛楽と竪琴楽との大部分、これらすべては、大体から言つて、模倣の様式(mimēseis)である。然し彼等は三つの点で一つ一つ違ふ。即ち或は性質の違つた媒材で、或は違つた対象を、或は違つた形式*4に依つて模倣するといふ点にて、違つたものが出来るのである。
 ある人達は、形と色とを以て多くのものを模倣し、その姿を写し出し――それは技術〔芸術〕*5に依り、もしくは、単なる経験に依つて――他の人達は音を以てする。これと同様に、上に列挙された技術〔芸術〕に於いては、模倣の媒材は、大体から言つてリズム(リュツモス)と言葉(ロゴス)と諧音(ハルモニア)とであつて、これらは或は単一に或は混成して用ひられる。例へば、竪笛楽、竪琴楽、その他これらと同じたぐひの働きをなす如何なるものも(例へば管笛(スリングス)*6の模倣の如き)すべて、諧音(ハルモニア)とリズム(リュツモス)のみを用ひる。舞踏者*7の模倣は、諧音を除き、リズムのみを用ひる。何とならば、舞踏者は自分の姿態のリズムを通して、人人の性格並びに人人の働きかけたこと、並びに働きかけられたことを模倣するからである。また単に言葉のみを以て、或は散文にて、或は韻文にて、模倣する一つの芸術がある。もし韻文が使用されれば、それは或は多くの韻律を組み合はせ、或は単一なる韻律を用いる。然しこの言葉での模倣を呼ぶべき名は、今日に至るまで未だ見出されてゐない。吾吾はソフロンまたは、クセナルコスの狂言(ミイモス)*8及びソクラテス的対話*9を総称すべき名を持たない。吾吾は、また、かかる模倣が三脚韻律(ツリメトロン)または哀歌韻律(エレゲイオン)*10または、他の種類の韻律を以てなされても、それに対する名を持たないであらう。只、人人は通常韻律の名に詩人(poiein 作る)といふ文字を結び附けて、或はelegeiopoios(哀歌韻律詩人)或はepopoios(叙事詩即ち六脚韻律詩人)と呼ぶのみである。恰もそれは言葉を以て模倣するといふ性質を捉へてではなくして、彼等の用ふる韻律に依つて、無差別に彼等を詩人と呼ぶのである。それゆえに医学上または自然科学上の議論が韻文で書かれたとしたならば、矢張作者は詩人と呼ばれるのが常である。然るに、ホメロスとエムペドクレス*11とは、韻律が同じであるといふ点を除けば、他に何等の共通点を持つてゐない。それ故ホメロスが正しく詩人と呼ばれるならば、エムペドクレスは詩人といふよりも、寧ろ自然科学者と呼ばれなければならない。またもしも誰かがまるで、すべての種類の韻律を組み合はして、*12カイレモンの「獣人(ケンタウロス)」の如く、殆んど、すべての種類の韻律が組み合はされた吟唱詩(ラプソディア)の如き模倣をなしても、吾吾は同じく彼を詩人と呼ぶであらう――そして吾吾は〔カイレモンを〕詩人と呼ばなければならない。これらのたぐひの模倣に関しては、以上述べた丈けに止めおく。最後に上に列挙されたすべての媒材、即ちリズム、旋律(メロス)、韻文(メトロス)、すべてを利用する模倣が存在することを言はなければならぬ。ディツラムボス詩と*13頌歌(ノモス)の詩と、並びに悲劇と喜劇とがそれである。然しこれらのものは、上に列挙されたる三種の媒材を、あるものは、同時に併せ用ひ、あるものは、一つ一つ分ち用ふるという点にて違ふのである。以上の諸芸術に於いての、これらの異れる要素を、吾吾は彼等諸芸術のなす模倣の媒材と呼ぶのである。


■訳者解説

 アリストテレスは「詩学」第一章の冒頭に於いて、先づ「詩学」のプログラムを立てた。然し、現存の「詩学」には、このプログラムから期待されべき多くのものが果たされてゐないことが、章を追うて読み行く中に分るであらう。
 先づ注意すべきは、吾吾の「詩学」には、詩そのものの定義がないことである。然し、これは、トラゴーディア、叙事詩、喜劇が説き果されてから、それら三者の定義を総合して、そこから出て来べき性質のもの故に、失はれたる部分に、最後の結論として、詩の定義が下されたのではないかと、自分は思ふ。「詩の諸型」に関しては、ディツラムボス、ノモス、狂言(ミイモス)、ソクラテス的対話などの名が挙げられてゐるが、問題にされてゐない。それらは詩の眼目ではないからであらう。喜劇に就いては、二十六章に続いて、直ちに、即ち、「詩学」の失はれたる部分にて、述べられたのであらうといふことは、トラゴーディアの感情作用に触れ、叙事詩の働きがトラゴーディアのそれと同じものであることを仄めかしてゐるのみであるが、このトラゴーディア、叙事詩の感情作用、即ち、カタルシスの問題は、喜劇の部で、それの感情作用と一緒に説かれたものであつたらうと想像され得る(バイウォータア「アリストートルの詩学」序文二三頁参照)。
 アリストテレスは「詩学」のプログラムを掲げたる後、巻頭に、先づ叙事詩、戯曲、ディツラムボス、器楽、之等一切は「模倣の様式」であるといふ仮説を宣言した。何故に、アリストテレスは、今日の吾吾に言はすれば、それらの様様な詩、劇、音楽は「芸術」であると言ふ所を「模倣の様式」と呼んだであらうか? それはギリシャに於いては、吾吾の所謂芸術といふ深みのある言葉は未だなかつたからである。バイウォータア(同上、序文七頁)に拠ると、西洋で、芸術といふ言葉が用ひられるやうになつたのは、ウィンケルマンやゲーテの時代からであるが、ギリシャでは「模倣技術」(mimētikai tekhnai)もしくは「模倣の様式」(mimēseis)といふ如き言葉が、それにほぼ相当するものを意味してゐた。ギリシャに於いては芸術は、例えば医術、耕作術、政治術、体操術などと同列に「自然」(phusis)といふものに対して「技術」(tekhnai)と呼ばれ、さうして、其等の実用的技術から区別される為に、諸芸術に共通な本質的特徴としての「模倣」といふ意味を附加して「模倣技術」と呼ばれてゐたのである。
 試みに、プラトンがこの「技術」(tekhnē)に就いて語つてゐる所(「法律」第十篇八八九)を見ると、そこでは、自然(Phusis)偶然(tukhē)技術(tekhnē)の三つがはつきり説明されてある。プラトンは、其処で、当時のギリシャ人一般の考ふる宇宙創造説に触れ「地水火風は自然と偶然とに依り存在し、技術に依り存在するのでない。次に、地球、太陽、月、星、之等はみな生命なき地水火風に依つて出来た。次に之等の諸要素は、各々偶然とさうしてある内面的力とに依り、運動をする。かくして、天が出来上り、天の下のすべてのもの、動物、植物、春夏秋冬が出来上る。之等はある人達の説くやうに、神によつて出来たものではない。また技術によつて出来たものではない。自然と偶然のみで出来たのである。技術は、之等のものの後に出来たものである。技術は人間から生れたものである。この技術の力によつて、ある肖像や真理の非常な偏見的模倣が作られた。音楽家や画家の創作はこの種のものである。然し、自然と結び付き、自然と協同作用をなし、重大なる目的を持つ技術がある。例へば、医術、耕作術、体操術、政治術である」といふ意味を語つてゐる。アリストテレスも、また「政治学」一三三七Aに於いて「あらゆる技術、あらゆる教育は、自然の短処を完全にする目的を持つ」と語つてゐるが、之等の個処から、ギリシャ人の所謂「技術」とは自然にあるままの、生《な》まな質料を材料とする自然の営みを、人為的に促進し、完成するものを意味するといふ事が窺はれるであらう。かやうに、tekhnēは、寧ろ、種種の実用的技術を意味し、其等から区別せられる為に、芸術はmimētikai tekhnai即ち「模倣技術」と呼ばれたのであつた。
 詩、絵画、彫刻、舞踏及び音楽を指して模倣技術もしくは模倣の様式と呼ぶことはプラトンに於いても見受けるのであるが、かくの如く、之等の諸芸術に共通な、本質的特徴たる「模倣」といふ言葉を以て、それらを呼ぶことは、恐らくは、プラトン以前に、既に一般的に流行してゐたであらう。即ち、一般の古代ギリシャ人に於いては、諸芸術は「創作」といはんよりは、寧ろ「模写」であるやうに考へられてゐたのである。バイウォータア(同上一一一~二頁)に依れば、一般の古代ギリシャ人に於いて、詩人(poiētēs)は、画家の如く模倣をなすものであつて、詩人の作品は創作といはんよりも、寧ろ伝説に、もしくは、人生に既に存在せしものを、多少忠実に模写したるものといふ如き概念があつた。故に、日常語として、詩及び絵画その他の芸術が呼ばれてゐた、深みもない、余韻もない言葉を、そのまま、プラトンは採用して、一般の芸術を、即ち、一般の模倣技術を「模倣」といふ名の示す如く、不名誉なる、不見識なる、且つ有害なるものとして排斥したのであつた(本書第四章解説参照)。注意すべきは、アリストテレスプラトンの嘲笑と誹謗とを買つた「模倣技術」もしくは「模倣の様式」といふ言葉を平然と「詩学」の巻頭に襲用して「模倣」を生かし、模倣を肯定しようとする強い態度のほの見える点である。


■訳注

*1 「叙事詩」(エポポイイア)epopoiia( 'epos' = word, heroic verse etc. + 'poiia' = making, fabrication )の語意は行為もしくは諧音(ハルモニア)で描写するところの戯曲もしくは音楽などに対して、言葉で描かれたもの、或は英雄詩韻律、即ち六脚韻律(ヘクサメトロン)で描かれたものである。それ故、マルゴリウスなどは、「詩学」にて論ぜられてゐるエポポイイアを、現代のロマーンス(小説)をも含めたところの広範な文学様式を意味すると解してゐる。アリストテレス時代のエポポイイアは、第二十三章及び第二十四章が示すやうに、ホメロスなどの英雄伝説詩から派生した幾多の物語が、六脚韻律を使はないで創作され、漸次韻文小説家して生きつゝあつた傾向は確かに窺はれる。然し、エポポイイアの眼目としてアリストテレスによつて考へられてゐたものが六脚韻律の叙事詩、とりわけ所謂ホメロス叙事詩であつたことには間違ひはない。
 ギリシャ叙事詩イオニアが産んだものである。有史前の民族移動時代に、ギリシャ本土の文化の高い諸民族は北方からの侵入民族に駆逐されて、主に亜細亜の沿海地域及び島嶼《とうしょ》に移住した。アイオリア人は主にその北部に、イオニア人はその中部に、ドリア人はその南部に移動した。これらのギリシャ上代の諸民族は初めは各種族間に連係もなく、ばらばらに住んでゐたが、奥地の亜細亜の夷狄《いてき》民族との対峙《たいじ》から漸次、彼等は文化や人種の点にて共同民族であることを自覚し、ヘレネス民族の融合した統一国ヘラスを作るといふ観念を抱き始めた。その頃になると、イオニア人が小亜細亜に於いて最も優勢で、最初最も栄え、高い文化を他種族に与えてゐたアイオリア人は今や他からそれを逆に受入れる側に立つてゐた。従つて小亜細亜の中部イオニアで誕生した叙事詩は其処のイオニア人の溌剌《はつらつ》たる優勢文化の表現であつた。然し、それでも、イオニア叙事詩の起源もしくは萌芽はアイオリアに由来すると言はれている。然し、叙事詩は九世紀から七世紀に亘ってイオニア人によつて育て上げられて来、その代表的なものがホメロスの詩と呼ばれてゐるものである。イオニア叙事詩は最初その地域を開拓したイオニア人の騎士達の英雄伝説を謳《うた》ってゐたが、後他種族のもろもろの伝説圏もそこへ参加して来、更にこれが吟唱詩人(ラプソードス)によつてギリシャ本土に渡来するや、そこでこんどは本土自身の思想や勘定や英雄伝説がその中へ織込まれた。かうして、イオニア叙事詩は膨張を重ねていよいよ大きくなり、且つ、六世紀深くまでも、在来のものが修正洗練を重ねられ、他方また、新材料がその後に至るまで永く無数に新しい叙事詩を供給し続けて行つたと考へられる。
 然し、ホメロス叙事詩は、その誕生地イオニアに於いては、既に七世紀頃に発展を止め、その血の社会変化のために民族的英雄伝説は忘れられて行つた。ギリシャ本土では、叙事詩の凍結はそれより約二百年後に起つたが、イオニア人系のアティカ人は五世紀にマラトンサラミスで戦捷し、民族意識を大いに昂揚させたので、彼等の祖先の英雄伝説にあこがれを失わなかつた。それ故、ホメロス叙事詩はアティカの悲劇の材料として採用され、人人は自分達の民族的伝説がアティカの現実の偉大な精神から更生して、トラゴーディアを通して奏でられるのを聴いて満足した。然し、結局、アティカに於いても、民族が英雄伝説といふやうなザーゲよりも、もつと大きく成長し、最早ザーゲに関心をもたなくなる運命は必然であつた。その為に四世紀のアリストテレス時代には、ホメロス叙事詩は従来ギリシャ人を統一し、鼓舞し教育してゐたその生命と偉力とを全く喪失して了ひ、ソクラテス風の対話、即ち、詩的衣装を脱ぎ棄てた、赤裸の学問知識の言はばザーゲがアティカに勢力を振ふやうになつてゐたのである(ウィラモウィツに拠る)。

*2 「トラゴーディア」Tragōidiaといふギリシャ語は、半獣半人の奇怪なる姿に扮《ふん》した叙情的合唱歌手を意味するTragōdis(獣人もしくは羊人を意味する)に由来し、Tragosは山羊を意味する。トラゴーディアがディオニュソス祭典の宗教的演技の一つであつた羊人劇から発展したことに、「詩学」四章の解説に於いて述べられてゐる。本訳書を通じて、トラゴーディアを「悲劇」と訳さない理由は、アティカのコーモーディアは間違ひなく現代の喜劇に相当し、「喜」の要素をもつが、トラゴーディアは必ずしも「悲」の要素をもたない、もしくはその要素が勝つてゐないからである。アリストテレス自身もトラゴーディアの筋の種類を述べて、主人公が幸福から不幸へ移る筋を最善のものと断定してゐるけれど、実際には不幸から幸福へと移る筋を取扱つたトラゴーディアの存在してゐたことを認めてゐるのである(第十一章、十三章参照)。尚、今日残存するトラゴーディアの中にも、例へばアイスキュロスの「解放されたプロメテウス」やエウリピデスの「タウロスのイフィゲネイア」などはめでたしめでたしで終つてゐる。要するに、ギリシャのトラゴーディアが近代に至つて「悲劇」となつて了つたのは、むしろ「詩学」六章に於けるアリストテレスのその定義に基くのである。

*3 「ディツラムボス」Dithurambosの語源は di = godly, divine + thrambos or thriambos (cf. 'triumph') である。 thrambos or thriambos はウィラモウィツによつてある種の歌もしくは舞踏の名と解され、「リデル・アンド・スコット」辞典によつてはディオニュソス讃歌と説明されてゐる。要するに、神がかりした、恍惚《こうこつ》たる歓びの歌の意味であることだけは分るが、ディツラムボスと名づけられた一種の歌の起源は一切不明である。然し、今日残存する最古のディツラムボスの信憑《しんぴょう》すべき断片に拠つて、少なくとも七世紀頃に於いては、それは飲酒家の一ぱい機嫌で、ディオニュソスの霊感に触れて歌ひ出す歌であつた。この種のディツラムボスの発祥地は多島海の島嶼《とうしょ》の中でも、ディオニュソスの信仰の中心地とも言ふべきナクソス島であつたことは確かなやうである。然し、アリストテレスが此処で言ふディツラムボスはこの時代のものではなく、ずつと後期のディツラムボスであることはバイウォータアによつても指摘されてゐる。ウィラモウィツに拠れば、アティカ国家が民主主義となり、市民コーラスが軍人同様に市民から義務的に徴募され、種種の宗教的合唱舞謡が催され、アポロ祭に挙行された演技はpaian、アテーネー祭のものはhumnos、そしてディオニュソス祭りのものがディツラムボスと名づけられたやうである。然し、ディオニュソス祭典が国家的行事となると、この祭りは唯ディオニュソス一神をまつる以上の意義深き行事となり、ディツラムボスといふ名も普遍化されて、唯ディオニュソス讃歌ではなくなり、一般の神々の頌歌を意味するところの属名となつた。他方、また、ディオニュソスは当時のあらゆる種類の合唱詩の保護神となつたから、ディツラムボスといふ名が、すべての合唱詩に通用されたといふことは不思議ではないのである。そして、これらの新ディツラムボスは音楽を使つて、その本質的効果を出し、且つ濃厚な身振り動作の演技が戯曲の側から取り入れられた。バイウォータアも、プラトンが「国家論」三九四Cでディツラムボスを模倣的所作の伴はない詩の例として挙げてゐる時は古い時代のものを意味し、アリストテレスが「プロブレマ」一九・一五、九一八Bで、ディツラムボスが模倣的演技となつた点に触れて言つてゐる時、それは後期のそれを意味し、「詩学」の此処でトラゴーディアや喜劇と並べて挙げられてゐるものと同じものを指すのだと註してゐる。尚、アリストテレスは「詩学」四章に於いて、トラゴーディアがディツラムボス詩人から始まると言つてゐる。四章註釈(六)参照。トラゴーディアは五世紀末に没落して、以後影がうすくなり劣悪な作家ばかり続いたけれど、新ディツラムボスはずつと存続したのみならず、アティカ民族の関心の第一位を占めるに至つたと言はれる。

*4 マルゴリウスは narratition, impersonation などを形式の例として挙げてゐる。

*5 「それは技術(tekhnē)に依り、もしくは、単なる経験に依って」は英語のartistとartisan位の区別であらう。マルゴリウスは絵画と写真との差別の如く、対象を理想的に描くことと、写実的にあるがままを描く画法とに解して、ギリシャ画家チェウクシスが当代の五人の美人の特殊の麗質をとつて、ヘレンを描いたといふ伝説を引用してゐる。以下本文に於いて、アリストテレスはtekhnē(技術)といふ語で「芸術」といふ言葉に近いものを意味してゐるから、「芸術」と訳す。

*6 「管笛《スリングス》」プラトン(「国家論」第三篇三九九)に依れば牧童の楽器である。

*7 「舞踏」ギリシャでは舞踏それ自身だけを観せるといふことは滅多に無かつた。舞踏は主として、歌謡に結び付いて用ひられ、其歌詞を躍如たらしめ、其意味を説明する役割をした。ギリシャ劇のコーラスの唄は殆んどすべて何等かの舞踏が伴はれ、舞踏は悲劇喜劇に於いて重大な要素をなしてゐた。またギリシャ人は舞踏を尊重すること甚だしく、公の席で舞踏しても、それが優美であれば、少しも威厳を傷つけなかつた。ソフォクレス自身も、自作の悲劇に舞踏者として出演することを恥ぢなかつた。同時に吾吾は、古代ギリシャの舞踏が近代の舞踏とはその性質を異にしてゐたことを忘れてはならない。プラトン(「法律」七篇八一六)は、舞踏は言葉や歌詞を身体の動作で説明しようとする人間の本能的傾向に端を発したと言つてゐる。ギリシャの舞踏(orchēsis)はあらゆる種類の身振や姿態を含んでゐた。さうして其主なる作用は詩の文句を演出し例証するにあつた。さうして、また、それには、当然、適切な手真似が最も有効であるから、ギリシャ舞踏では、脚の運動よりも手や腕の運動が重要であつた。アイスキュロスが採用してゐた有名な舞踏家テレステスは手で最も巧妙に事件を描くと言はれ、また、ある優れた舞踏家は犬儒学派の一人であるデメトリオスから「彼奴は手で物を言ふ」と言はれたりした。かように、ギリシャの優れた舞踏家は、歌に伴ひ、極めて表現的な所作で歌が描く事物を眼のあたりに彷彿《ほうふつ》させることが出来た。プルタークはSimposiasca《シムポジアスカ》七四七Bに於いてギリシャ舞踏を三つの要素、即ち運動と姿態と指示とに分類し、運動は行動と感情を描くに最も必要であり、姿態は運動の一つが終る姿勢で、例へば、舞踏家はアポロもしくはパンもしくはバッカス神徒(Bacchante)を暗示するやうな姿態に休止し、指示は物真似でなく、単に天、地、傍人のやうなある物体を指示することから成立つと云つてゐる〔ヘイグ著「希臘劇場《アテイクシアタア》」三一一~三頁〕。

*8 「ソフロンまたはクセナルコスの狂言(ミイモス)」喜劇はギリシャでは両つの場処から発生した。一つはシシリイ島が僭主《せんしゅ》の支配下に短期間ながらも最も美しい華やかさに達した時に、そこでfarceの一種が起つた。この初歩の喜劇は道化役者のふざけた演戯で、パントミーム、素朴な歌謡、概して即興的な散文の台詞を使つて人生の漫画を表現した。一体、シシリイ島はコリント地峡のメガラの植民地で、本土のそこに既にさういふ笑劇が書かれてゐたのを、メガラ人が植民地へ持つて来て一層盛んにしたやうである。そして、新メガラのシラキュースでエピカルモス(第三章参照)やソフロンが五世紀前半にこの喜劇的演戯を一つの戯曲的な詩に書き上げた。当時シラキュースの僭主ヒエロンはアテーナイからそこのトラゴーディアを創作したふりに越すやアイスキュロスを彼の宮廷へ招待したことがあつたからである。然しコーラスは欠けて居り、また、ところどころが舞踏されたり歌はれたりした。またプラトンは三九〇年頃シラキュースに滞在したことがあり、その折にこの民族的|揶揄《やゆ》の写実的な強い魅力に興味を抱いた為に、ソフロンのミイモスがアテーナイにも輸入されるに至つた。コーモーディア(喜劇)といふ名はエピカルモスの詩には、確かに、附かなかつただらう。他方、アテーナイではシシリイよりも二十年程後れて、そこで民主政治がいよいよ花を開いた時に大いに喜劇が発展した(以上ウィラモウィツ及びモールトンに拠る)。尚、此処でミイモスとソクラテス的対話とが並べられてゐる訳は、両者が韻文で無く、散文様式で模倣をなす共通点によるのであらう(バイウォータアに拠る)。
 クセナルコスはソフロンの子である(スタール註)。

*9 「ソクラテス的対話」 先づ、相手に問を掛け、問答を進め、遂に、相手自身をして真理を掴《つか》ましめるやうな様式であつたソクラテスの対話的哲学を描きしもの(例へばプラトンやクセノフォンに於ける如く)もしくは、ソクラテス以外の哲学者のソクラテス風なる問答を描きたる一切を籠めて「ソクラテス的対話」と云ふのである(コープ著「アリストートルの修辞学」三巻一九二頁)。

*10 哀歌韻律(elegeion) ホメロス叙事詩を生んだイオニアでは、七世紀、六世紀に於いて、その地域の諸市邑のすべての社会階級の革命が遂げられ、騎士階級は没落し、新興交易大都邑の市民階級が台頭し、また労働階級から大胆不敵な、然し有能の者は身を起して、従来の支配階級の有力者を倒し、人人を自由に解放したが、其後彼等が庶民を後見、監督して行く中に圧制を行ひ始めた。ホメロスの詩は最早もてはやされなくなり、発展する力も失ひ、イオニアに荒い風が吹き始めた。船は海を渡つて遠い世界へ旅したが、人人の思想は更に遠い、無限の世界へさまよつて行つた。結局人人は救はれないで、光明を失ひ、人間苦の果しのない悩みをしみじみ味ひ、人生や世界の永遠の謎に直面した。かくして、民衆の代表者等は市場や神殿の階段や酒宴の席上などで、衆人の面前に於いて、個人的にものを言ひかけた。彼等は最早神話や祖先の英雄伝説を語るのでなく、現実の人生に就いて語り、市民の怠慢を叱り、危険が前途に横はることを警告し、反対する者に罵言を投げかけた。或は彼等自ら思索を凝らして考へ出した所の人生観、世界観を述べた。その様式はイオニア民族の最も古くから所蔵されたものから捜し求められた所の、全く民族的な形式のものiambosであつた。そして、また、別に叙事詩を取り入れたものがelegeionであつた。イアムボスも、エレゲイオンも主観的なものを歌つた詩で、生きた現実の言葉で書かれ、文学的の魅力を大いにもつてゐた。これらの詩は矢張吟唱詩人の手でギリシャ本土へもたらされたが、本土では未ださういふ主観的な詩を受け容れる下地が出来てゐなかつた。只同じイオニア種族系のアテーナイでは、それらの新しい詩が国民の気分、情緒に働きかけ作用する良い武器として、政治革新者ソロンによつて採用された。騎士階級の支配下ペロポネソスではこれらの新しい詩の危険性を恐れて排斥したが、その主都スパルタはエレゲイオンのみを採用し、貴族等は自分等の所謂徳性を歌はしめる道具となした。イオニア叙事詩と同様に、これらの詩もギリシャ本土の西部にはあまり伝播されなかつた。イアムボスは実にソロンによつてアテーナイだけに於いて採用されたのであるが、これが後にトラゴーディアの対話へと発展する運命となる(ウィラモウィツに拠る)。

*11 エムペドクレス(五世紀)は哲学的論文を叙事詩韻律たる六脚韻律で書いた(ジェット・アイ・サイモンズ著「ギリシャ詩人」一三三頁)。

*12 カイレモンは四世紀の中頃栄えたる悲劇詩人であつて、彼の作なる「獣人」(Kentauros)は諸種の韻律が組み合はされて、書かれたものであることがAthenaios《アテナイオス》六〇八Eから分るが、他は一切不詳であると言はれる(ヘイグ著「ギリシャ悲劇」四二六~七頁)。

*13 頌歌《ノモス》(nomos)はアポロの神に対する頌歌《ノモス》で、竪琴に合はせ舞謡された(スタール註)。ディツラムボスは翻覆的形式、即ち、etrophe, antistrophe, epodeの三段になつてゐるに反し、頌歌《ノモス》は単一であつた(ステッヒ註)。


■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:
・吟誦詩→吟唱詩(訳者は注釈では「吟唱」を用いている)
・連繋→連係
・愈〻→いよいよ
・擡頭→台頭

※ディツラムボス、エムペドクレス、イアムボスの「ム」は、いずれも元の訳文では小さい文字で表記されている。