アリストテレス『詩学』第十九章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十九章 ■■

 

 筋と性格とに就いて論じ終つた今や、措辞と思想とに関して考ふる仕事が残つてゐる。思想に関しては「修辞学」に於いて述べたことがあてはまるであらう。思想は*1、寧ろ、学問のその部門に属すべきものだからである。登場人物の思想は、彼等の言葉成し遂げらるべきすべてのものに――あることを*2証明もしくは説き破らうとし、また、哀憐、恐怖、憤怒などの情緒を誘発しようとし、尚、また、あることを極大*3に、もしくは、極小に述べようとする如何なる場合にも現はれる。また登場人物の行動*4に於いても、彼等が彼等の行動をして、哀隣もしくは恐怖を誘発せしめ、或は十代もしくは蓋然の様子を持たしめようと、欲する何時でも、思想の動きが、彼等の言葉に於けると同一なる方式の下に進まねばならないことは明かである。行動と言葉との差別は、只、印象が、前者に於いては、説明なしに与へられるに反して、後者に於いては、説話者に依つて描き出され、彼の言葉から生ずる点にある。実際、もしも事物が台詞を離れて、思ふままに表現されてならば、説話者の仕事として何が残るのであらう?
 措辞に関して注目すべき一つの問題は、言葉が言ひ放たれたる時の語調である。例へば、如何に言ひ放たば、それが命令となり、祈祷となり、或は、ただの叙述となり、恐喝となり、或は、問となり、答となるかなどの問題である。然し、かやうな問題は能弁学、並びに、その方面の学者の仕事に属する。詩人が、これらの事を弁へてゐようともゐなくとも、詩人の腕が、かやうな問題で、重大に問はれるものでない。「女神よ、怒りを歌へ」*5に於いて如何なる欠点が見出されようか? プロタゴラスはこの句を非難して、願望が意味されてある所が命令になつてゐると言ふ。彼の理由とする所は、あることを為せ、もしくは、為すなと、人に言ひ附けることは、命令であると言ふのである。それ故、吾吾は、かやうな問題は、詩ではなく、他の技術〔朗吟の如き〕に属するものとして看過するであらう。