アリストテレス『詩学』第十五章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十五章 ■■

 

 性格に於いては、四つの狙ひ所がある。第一は、さうして、最も重要なことは、性格は善く*1なければならぬことである。前にも言つたやうに、もしも人物の言葉もしくは行動が、何等かの一つの意図を明示するならば、その戯曲には一つの性格が出てゐると言へよう。もし、善き意図が明示されてあるならば、一つの善き性格が出てゐると言へよう。かかる善は如何なる種類の人物にも現はし得る。女*2は多分男よりも劣等であり、奴隷は*3、全然、つまらないものであつても、矢張彼等もまた善くあり得る。第二は性格を適合させることである。例へば。雄雄しい性格があり得る。然し女が雄雄しくあつたり、名論卓説*4を吐いたりすることは適合しないことである。第三は、性格を真実らしくすることである。これは、前に述べた、性格を善くすることとも、また性格を適合させることとも別な事柄である。第四は、性格に矛盾があつてはならないことである。たとへ詩が模倣せんとする実際の人物が、矛盾ある人間であつて、さうして、かような性格として描かれるのであつても、矢張その矛盾が矛盾なく描かれねばならぬ。筋*5に必要もなく描かれた性格の卑劣の例は「オレステス」に於けるメネラオス*6である。不似合な、不適合な性格の例は「海鬼(スキュラ)*7に於ける〔雄雄しい性格の〕オデュセウスの哀哭《あいこく》と、メラニペの〔あまりに名論卓説的な〕台詞とである。矛盾の例は「アウリス*9のイフィゲネイア」である。そこでは、哀願者たるイフィゲネイアは、終りに於けるイフィゲネイアとは、まるで相違してゐる。さて、性格に於いては、筋の組立てに於けると同様、常に必然なこと、もしくは蓋然なことを求めなければならぬ。それ故、しかじかの人物がしかじかのことを語り、もしくは為すに当つえ、それが必然もしくは蓋然の結果でなければならぬ。さうして、また、しかじかの出来事の後に、しかじかの出来事が起る場合も、それが必然的もしくは蓋然的に起らねばならぬ。この見地から、また、〔戯曲に於ける葛藤の〕解決は、筋そのものから来なければならぬ。決して、かの「メディア*10」、並びに「イリアス」に於ける希臘《ギリシャ》軍*11の船出の物語のやうに、昇降機(メカネ)によつての解決であつてはならない。昇降機*12はよろしく戯曲のそとに横はる事柄、すなはち人智の及ばない過去の出来事、もしくは預言し告げ知らせて置く必要ある未来の出来事に対して用ひなければならぬ。何とならば神神は〔過去、未来〕すべてのことを知つてゐるものとして許されてあるからである。而して、戯曲中の出来事の中には少しの無理もあつてはならない。万一、不合理な要素が避けられなければ、それは、ソフォクレスの「オイディプス王」に於けるやうに、戯曲*13のそとに置かれねばならぬ。さて、トラゴーディアはより善き人間を模倣する故、吾吾は善い肖像画家の手法を真似なければならない。これらの肖像画家は、容貌の特徴を写すと同時に、実際よりも美しく描き、しかも、実物に似たるものを作る。同様に、詩人は、怒り易い人人や、容易に怒らない人人、その他、性格上、類似の弱点を持つ人人を描くに当つて、かやうな特徴を描き出すと同時に、善き人として描かねばならぬ。例へば、アガトンとホメロスとが、アキレウスを描いた仕方がそれである。
 人はこれらの法則すべてを守らねばならぬ。その上、加ふるに当然、詩人の芸術に属する舞台効果上〔観衆に感覚的に訴へるもの〕の諸法則も、念頭に置かねばならない。その点に於いてもしばしば過失が行はれるからである。然し、この点に就いては、既に公にした吾吾の論文*14に十分説かれているのである。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

覘ひ→狙ひ
哀哭:(ルビ振り)
希臘:(ルビ振り)
屢々→しばしば

アリストテレス『詩学』第十四章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十四章 ■■

 悲劇的哀憐と恐怖は、場面から誘発されることが出来る。しかし、それはまた、戯曲の組立てと出来事そのものからも誘発され得る。この後の方法は前者よりも優れ、また其作家が、卓絶せる詩人であることを語る。筋は単にその話を聞く人が、その出来事の起る所を見ることなくしても、戦慄し、哀隣を催すやうに組立てられなければならない。例へば「オイディプス王」の物語に耳を傾ける何人もが受ける感動がそれである。かかる悲劇的効果を、場面によつて出さうとすれば、芸術的味は少なくなり、また、それには、外部的装置の助けを借らなければならない。然し単に、怪異であるだけで、少しも、恐怖を起させないものを、場面に依つて描き出さうとする人達は、全然、トラゴーディアといふものに触れてゐないのである。何とならば、あらゆる種類の喜悦はトラゴーディアから求めらるべきでなく、唯それに固有の悦びのみがそれから求めらるべきである。
 この悦び*1は、哀憐と恐怖から来、詩人は、かやうな悦びを、模倣によつて作りださなければならない。それ故、かやうな哀憐や恐怖の因となるものが、物語の出来事の中に織込まれてゐなければならないことは明かである。然らば、如何なる出来事が恐ろしく、もしくは、如何なる出来事が哀れであるか? 吾吾はこれを知らうと思ふ。〔哀憐や恐怖を誘う戦慄すべき所の〕行為に於いて、当事者は肉親であるか、敵味方か、もしくは何れの関係もなく、無関心の仲かでなければならぬ。さて敵が敵に対する場合、何が実行されようと、何が計画されようと、単に、苦しむ側の者の苦悩に関しての外は、何等、吾吾の哀憐を催させるものはない。また、当事者が相互に無関心の関係にある場合も、同様のことが言へる。然し、悲劇的行為が一家族の間に起る場合、例へば殺人その他類似の行為が、或いは兄弟の仲に、或は子が父に対し、もしくは母が子に対し、もしくは子が母に対して、行はれたり、計画されたならば、これらの出来事こそ、詩人の求むべきものである。それ故、例へば、オレステス*2が〔母〕クリュタイムネストラを殺す物語や、アルクメオン*3が〔母〕エリフレを殺す物語の如き伝説的物語は、そのまま保存されねばならぬ。然しながら、これらの伝説的物語に於いてさへも、それらの正しい取扱は、詩人の腕に待たねばならぬ。然らば「正しき取扱」とは何を意味するか? 吾吾はこれをもつと明かに説かうと思ふ。〔トラゴーディアが通常描く所の殺人などの〕行為は、昔の詩人の作に於いてのやうに〔被害者が自分と如何なる肉親関係にあるかを〕知り、さうして意識してゐる加害者に依り為される場合もある。かの、エウリピデスが描いたメディア*4が、彼女自身の子供を殺す場合がその例である。また〔加害者は自分と被害者との〕肉親関係を知らずに、恐ろしい行為をなし、凶行後それを発見するやうな場合もあり得る。ソフォクレスの描いたオイディプスがその例である。然しながら、この例に於いては〔オイディプスが父を殺すといふ〕恐ろしい行為は戯曲の外に置かれてある。然し、また、恐ろしい行為が戯曲の仲に仕組まれてゐる例もある。アスデュダマス*5の作中に出る〔知らずに母エリフレを殺す所の〕アルクメオン、或は「傷ついたオデュセウス」に出るテレゴノスの行為がその例である。第三は、肉親関係を知らないで凶行を計画してゐる途中に於いて、それを発見し、実行を思ひ止まる場合である。以上*6に挙げた外に、別な場合はない。何とならば、行為は、実行されるか、実行されないか、さうして、知りながらか、知らずにかの、何れにか定められるからである。
 以上の行為の中、最も悪しきものは知りながら計画し、さうして、凶行せずに終る場合である。この場合は醜く、忌はしきものであり、非悲劇的である。何とならば、そこには何等の苦悩もないから。それ故「アンティゴネ」に於いて、ハイモオンが〔父〕クレオンに対し〔凶行を計画し、さうして、思ひ止まる〕如き、少数の例外を除いたならば、人物のかやうな動きは他に絶無である。この次に位するものは〔知りながら計画したる行為の〕実行である。然し、尚一段と優れたるものは、知らずに凶行を遂げ、あとで発見する場合である。此場合は醜く、忌はしいことは更になく、しかも、この時の発見は非常に観衆の胸を突く。然しながら、すべての中の最も優れたるものは、最後に挙げんとするものである。例へば、「クレスフォンテス」に於いて、メロペ*7が彼女自身の子を殺さうとして〔辛うじて子であることを発見し〕殺さずにすみ、或は「タウロスのイフィゲネイア」に於いて、姉〔イフィゲネイア〕が将に弟〔オレステスを人身御供にしようとし、辛うじて、弟と知り〕或は「ヘレ」に於いて、子が母を敵の手に渡さうとする刹那、母であることを発見した如き場合である。
 この事情〔本章八七頁に於ける「悲劇的行為が一家族間に起る場合、例へば殺人其他類似の行為が、或は兄弟の中に或は子が父に対し、もしくは子が母に対して行はれたり、計画されたならば、これらの出来事こそ、詩人の求むべきものである」に戻る〕は先きに述べたやうに(第十三章参照)何故に、吾吾のトラゴーディアが、極く少数の家柄に起つた事件に制限されてゐるかを説明する。詩人達は、材料を捜し求めつつ、偶然有合はす、かやうな種類の出来事を、彼等の筋に仕組んだのであつて、それは、彼等自身の芸術から編み出されたものでなかつた。それ故、彼等詩人は今日も尚〔新しき物語を創作する腕がないままに〕余儀なく、かくの如き悲痛な出来事の起つた家から材料を仰がねばならない次第である。
 筋の組立てと、その筋は如何なる種類のものでなくてはならないかとに就いては、今や、十分説明された。


■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

 

 

アリストテレス『詩学』第十三章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十三章 ■■

 以上述べてきた次に論ずべきことは、筋を仕組むに当つて、詩人は何を狙ひ、何を避けねばならないか、さうしてトラゴーディアの効果〔カタルシス〕は何から起るかといふ問題であらう。
 最も優れたるトラゴーディアの筋は、単一でなく、複雑でなければならない。さうして、それは、哀憐と恐怖との感情を起させる行動の模倣でなければならぬ。何とならば、かかる種類の感情誘発に、この種の模倣の特殊な機能が存するからである。〔吾吾がこの機能を本位とする時、避けねばならない三つの様式の筋がある事は明かである。〕先づ第一に、善き人が幸福から不幸に陥つて行く所を見せてはならない。何とならば、この倍、決して哀憐や恐怖を誘はないばかりでなく、あまりに残忍であるために、不快を起させるに過ぎない。〔第二に〕また、悪しき人をして、不幸から幸福に移らしてはならない。何とならば、それは、最も非悲劇的であつて、全然、トラゴーディアの要点に外れ、吾吾の人情にも訴へず、また、哀憐も恐怖の感情をも誘発しない。〔第三に〕また、ずばぬけて悪しき人が、幸福から不幸へと陥つて行くのを見せてはならない。何とならば、かかる種類の趣向は、たとへ、人情に訴へようとも、決して、哀憐や恐怖の情緒を起させるものでないからである。哀憐は主人公が不当な不幸に陥つて行くのを見る時、誘発され、恐怖はこの主人公が吾吾と同じ人である場合に起る。それ故、今論じてゐる〔第三の〕場合に於いては、何等哀憐を誘ひ、恐怖を催させるものはないのである。あとに残る場合は、中間に位する人物に就いての場合である。即ち、人並以上に、善くあり、さうして、正しくあると言ふではない人が、罪*1や悪を犯してでなく、単に、ある過失誤解*2から、不幸に陥る場合である。さうして、その人は非常な名望と繁栄とを享有してゐる人人の一人であることが必要である。例へば、オイディプス、テュエステス*3、その他、同様な家柄から出た、著明な人達がそれである。
 さて、優れた筋は、単一の結末を持つたものでなくてはならない。決して、一部の人達が説くやうに、二重の結末を持つたものであつてはならない。さうして主人公の運命の変化は、不幸から幸福に移るのでなく、反対に幸福から不幸へ移る変化でなければならぬ。さうして、主人公のこの落魄《らくはく》は、彼が悪を犯したからでなく、彼の大きな誤解に基かねばならぬ。その上、主人公は吾吾が今説いた如き〔吾吾と同じ〕人間であるか、もしくはより善き人間であつて、決してより悪しき人間であつてはならない。事実がこれを説明してゐる。初期に於いて詩人達は、偶然手に入る如何なる物語をも採用したに反して、今日では最も優れたるトラゴーディアは、ある少数の家柄に起つた物語の上にのみ脚色されてある。例へば、アルクメオン*4、オイディプスオレステス、メレアグロス*5、テュエステス、テレフォス*6、及び戦慄すべき出来事の発動者もしくは、受難者であつた他の家柄である。それ故、理論的に言つて、最も優れたるトラゴーディアは、かくの如き種類の筋から成立つ。であるから、エウリピデスが、彼のトラゴーディアに於いて、吾吾が今説いた如き方針に則り、さうして、多くのものに、不幸な結末を附kたことを非難する批評家は、批評家自身、誤れる者と言ふべきである。エウリピデスのやり方は、吾吾が言つたやうに、正しい。その最も良い証拠に、舞台の上で、さうして公衆の前で演ぜられる場合、かやうな種類のものは、それが只よく取扱はれてあつたならば、吾吾の眼に最も悲劇らしい真のトラゴーディアとして見られる。さうして、エウリピデスは、他の多くの点に於いて、欠点あるやり方をしてゐるとしても、それにも拘らず、詩人中最も悲劇的な作家として、吾吾の眼に映る。かの一部の人達が第一に推してゐる筋の趣向、例へば「オデュセイア」の如く、二重の物語を含み、善人と悪人の運命が、各々逆に〔幸福と不幸とへ〕移り変つて行く結末を持つ筋は、第二位のものである。この種類の筋は単に観衆の〔純悲劇的緊張に堪え切れない〕気弱さから第一位に押されてゐるに過ぎない。さうして、詩人達は観衆に追随し、観衆の趣味に投合する。然し、かやうな筋から生れる悦びは、トラゴーディアの悦びでなくして、寧ろ、喜劇の部に属する。喜劇に於いては、例へば、オレステスアイギストスの如く、篇中にては、この上もなく、敵意を含み合つてゐた二人が、結末に於いて、お友達になり合つて舞台を去り、誰が誰を殺すといふやうな事件なくして終る。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

覘ひ→狙ひ
落魄:(ルビ振り)
各〻→各々

アリストテレス『詩学』第十二章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十二章 ■■

 トラゴーディアの組織的要素として取扱はれる、諸部分に就いては、前章に於いて、述べ終つた。然しその量、即ち、外形的に、如何なる部分部分に分けられるかと言へば次のやうな部分に分けられる。序詞(プロロゴス)*1、挿曲(エペイソディオン、「幕」)、結尾(エクソドス)並びに登場歌(パロドス)と間《あひ》の歌(スタシモン)との二つに分れた舞謡曲(コリコン、即ちコーラスの舞謡歌)の部分とである。この登場歌と間《あひ》の歌とは、すべてのトラゴーディアに共通に用ひられるが、舞台(スケーネー)に於いて歌はれる歌謡と、哀悼歌(コモス)*2とは、トラゴーディアのあるものにのみ存する。序詞とは、コーラスの登場歌に先んずる、すべての部分を言ふ。挿曲とは、全き舞謡曲と舞謡曲との間に挟つた、すべての部分を言ふ。結尾とは、最後の舞謡曲の後に来るすべての部分を言ふ。舞謡曲の部分に於ひて、登場歌とは、コーラスが歌ふ最初の叙述すべてを言ひ、間《あひ》の歌とは、短短長格韻脚もしくは長短格韻脚を含まない舞謡曲の部分を言ふ。哀悼歌とは、コーラスと俳優との合唱で歌はれる所の慟哭《どうこく》の歌を言ふ。トラゴーディアの構成要素として用ひられる諸部分は前に挙げられたが、その量、即ち如何なる区分に分けられるかは、今、述べた所である。


■訳注


■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:
・慟哭:(ルビ振り)

アリストテレス『詩学』第十一章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十一章 ■■

 急転(ペリペテイア)とは戯曲に描かれたる事態が、反対の方向へ前に述べられた如く〔幸福から不幸へ、もしくは、不幸から幸福へと〕変化し、しかも、その変化は吾吾が今説いてゐる様式に、即ち蓋然的な、もしくは必然な運びを以てなされた場合を言ふ。吾吾は「オイディプス王」*1にその例を見る。そこでは、一人の使者が、オイディプスの、彼の母に就いての怖れを取り除いて彼を悦ばせようとして来て、彼の真の素性を明かしたが為に、事態が逆に反対の方向へ急転した。また吾吾は「リュンケウス」*2にその例を見る。リュンケウスは刑場へと導かれ、ダナオスは死刑の執行者として、彼の側に附き添ひ行く、その刹那、そこへ事件が起り、逆にダナオスが刑され、リュンケウスは助けられる。発見(アナグノーリシス)とは丁度その名の示す如く、幸福もしくは不幸へと、運命が定められた人物画、今まで知らなかつた〔骨肉関係などの〕ことを初めて知つて、その結果或は愛する心になり、或は憎む心になるを言ふ。最も優れたる発見は「オイディプス王」に於いての発見の如く、急転を伴ふ所のものである。勿論他に以上の場合と変つた形式の発見もある。今述べた所の〔今まで知らなかつた骨肉関係を知つて、さうして、心が或は愛へと移り、或は憎しみへと移つて行くやうな〕事態の移動は、生命のない物、また偶発的の物に関しても、ある仕方で起り得る。また、ある人がある行為をなした、もしくはなさなかつたと、発見することも出来る。然し筋並びに人間の行動と、最も密接に結びついた形式の発見は、第一に挙げた所の〔人と人との関係の〕発見である。〔愛もしくは憎しみを齎《もたら》す〕かかる種類の発見は〔幸福もしくは不幸を齎《もたら》す〕急転と共に、哀憐もしくは恐怖の感情を引起すであらう。さうして、トラゴーディアとは、かかる性質の行動を模倣するものと、仮定されてあるのである。尚また、かやうな種類の発見は、或は不幸な或は幸福な結末を生み出す手段ともなる。而して、発見が人と人との関係の発見なれば、その時甲の素性が既に乙に知られてゐて、乙の素性のみが甲に発見されるといふことがあり得る。或は、甲乙両者共共素性を明かし合はねばならぬ場合もありうる。例へばイフィゲネイア*3は手紙を出さうとすることによつて、オレステスに発見された。この次に、彼がオレステス自身であることをイフィゲネイアに明かすべき発見が必要であつた。
 筋の二要素たる急転と発見とは、以上のやうな事柄に関したものである。第三の要素は苦悩である。これらの中、急転と発見とは既に説明された。苦悩とは破壊的もしくは苦痛を与へる行為を言ふ。例へば、舞台の上での、殺人、痛烈な肉体苦、傷害、その他類似のものを言ふ。


■訳注


■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:
・齎す→もたらす

 

アリストテレス『詩学』第十章(松浦嘉一訳)

■■ 第十章 ■■

 筋には単一と複雑との二種がある。筋が模倣する人間の行動は、当然この二種に分れるからである。単一なる筋とは、継続的な、全き一体として、前に述べた如き様式の下に進む所の行動であつて、急転(ペリペテイア)も発見(アナグノーリシス)も無くして、主人公の運命が変化して行く場合を言ふ。複雑なる筋とは、急転もしくは発見、もしくは二つのものに依つて、主人公の運命が移り変つて行く場合を言ふ。急転並びに発見は、筋の結構そのものから生れ、前の出来事の、必然的もしくは蓋然的の結果でなければならぬ。〔さうして、決して単に時の点に於いてのみ、前の出来事のあとに来てゐる丈けではいけない。〕一つの出来事が起るに就いても「これがために」と言ふ場合と「このあとで」と言ふ場合とには、大きな相違がある。

 

アリストテレス『詩学』第九章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第九章 ■■

 以上に述べたことから、詩人の仕事は、実際に起つたことを描くのでなく、起り得ること、即ち、蓋然、もしくは、必然的に、可能なことを描くことである。歴史家と詩人との差別は、一方が散文で書き、他の一方が韻文で書くといふ点ではない。何とならば、ヘロドトスの作品は、韻文に書き換え得られよう。然し、矢張それは韻の有無に拘らず、一種の歴史であらう。歴史家と詩人との差別は、韻文と散文との差別にあるのであはなく、一方は実際に在つたことを描き、他の一方は在り得ることを描く点にある。それ故、詩は歴史よりもより以上に哲学的であり、より以上に荘重である。何とならば、詩は寧ろ普遍性を描き、歴史は個性を描くからである。此処に言ふ「普遍性を描く」とは、如何なる性質の人は、蓋然、もしくは、必然に、如何なる種類のことを言ひ、もしくは、行ふかを描かんとするを言ふ。詩はたとへ個人的の名前を取り入れても、詩の狙ひ処はこの普遍性である。また、此処に言ふ「個性を描く」とは、例えばアルキビアデスが、働きかけたこと、もしくは彼が働きかけられたことを描くを言ふ。詩が普遍性を描くことは、現代の喜劇に於いて既に明瞭である。喜劇に於いては、先づ蓋然なる出来事を以て筋が仕組まれ、それから、個人的の名前が、その筋に根底をつけるため、それぞれ、思ひ思ひに採用される。喜劇に於いては、最早昔の風刺詩人(イアムボポイオス)のしたやうに、ある個人を捉へて描くといふことはなくなつた。然し、トラゴーディアに於いては、史的人名を未だ固守する。その理由とする所は、真実なものとして、吾吾を信服せしめるものには、可能性があると言ふにある。吾吾は、まだ実際に起らないものの可能性を、必ずしも信じないのに反して、実際に起つたものの可能性を容易に信ずる。何とならば、もし、それが可能性なくばそれは、決して起らなかつたであらうから。然しながら、実際は、トラゴーディアに於いてさへも、一二の人物に、吾吾の熟知する名前が冠せられてあるのみで、外は仮作の名が付けられてあるような戯曲がある。且つ、あるトラゴーディアに至つては、全然、知名の人物の名前を使つてゐない。例へば、アガトン*2の作「アンテウス」の如きがそれである。この作では、事件も人物の名も共に詩人のつくりごとであつて、しかも、そのために面白味が殺がれることは少しも無い。それ故、吾吾はトラゴーディアの根底をなしてゐる伝説的物語を、飽くまで固守する必要は全然ない。実際、有名な物語も、たとへ、それが、すべての人人を悦ばすものであつても、只少数の人人にのみ知られてゐるに過ぎないことに思い至らば、これを固守することは笑ふべきことであらう。
 以上、述べられたことから、顕著である如く、詩人(poiētēs, 'Maker')は模倣するから、しかも、人間の行動を模倣するから、詩人と呼ばれるのである故に、それだけ、一層、彼は韻文を作る人であるよりも、寧ろ、筋を創作する人(poiētēs)であらねばならぬ。さうして、誰かが万一実際に在りしことから脚色しようとも、彼が詩人であることに少しも変りはない。何とならば、ある歴史的出来事が、蓋然的なものであり、可能的である点に於いて、その人はかかる出来事の創作家(poiētēs)である。
 〔吾吾が後に知る如く、筋や行動は、単一かもしくは複雑である。〕単一なる筋や行動の最も悪しき形式は、挿話的のものである。挿話的のものとは、相互に何等蓋然もしくは、必然なる因果の関係を持たない幾多の挿曲(エペイソディオン、「幕」)を含む筋を言ふ。かかる挿話的筋は、拙き詩人の手に依つては、彼等自身の過失から仕組まれ、優れたる詩人の手に依つては、俳優達に対する考慮から仕組まれる。トラゴーディアは元来が公衆相手の仕事であつて、優れたる詩人も、しばしば、その筋を、法外に引き伸ばし、出来事の順序を歪《ゆが》めることを強ひられるからである。
 然しながら、トラゴーディアは、完全なる行動のみならず、恐怖と哀憐との情緒を誘ふ出来事の模倣である。さうして、かかる出来事は、それが、不意に、しかも因果の関係から起こる時に、最も効果がある。因果の関係から起る方が、自発的に、そして、偶然に、起るよりも、より多く、驚嘆を引き起す。実際、単なる偶然の出来事も、もしそれがわざわざ計画されたもののやうに見えたならば、この上なく非常に驚異なものに見えるであらう。例へば、ミツスを殺害した下手人が、アルゴスの町の祭りを見てゐる時、ミツスの銅像が倒れて、彼を殺して了つたと言ふ如き場合である。かくの如き出来事を、吾吾は無意味な出来事とは考へない。それ故、かくの如き、必然的もしくは、蓋然的なる因果関係を現はしてゐる筋は、必ず他の筋に勝る。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

・覘ひ→狙ひ

・根柢→根底
・歪める:(ルビ振り)

※イアムボポイオスの「ム」は元の訳文では小さい文字で書かれている。