アリストテレス『詩学』第十七章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十七章 ■■

 筋を組立て、それを詞《ことば》に拵《こしら》へ上げるに際して詩人は出来るだけ、描く所のものを眼前に浮かべなければならぬ。かくして凡てを、丁度、それらが実際に起つてゐる所を目撃してゐるかの如く、明かに眺めることに依つて、詩人は適切なるものを考案し、矛盾を見逃すことも、極めて稀れになるだらう。この点はカルキノスが受けた非難で証明される。何とならば〔彼の作中に現はれる〕アムフィアラオス*1は聖堂から帰った。然しこの〔矛盾〕は、この出来事が、観衆に観られなかつたならば、気付かれずに通つたであらう。然し、舞台の上では、この作は失敗に終つた。観衆はこの出来事の矛盾に不快を感じたからである。而して詩人は、また、描く所のものを、人物の身振所作で以て出来得る限り自ら演じて見なければならぬ。同じ程度の天分が与へられたとするなら、描かれる所の感情に自ら入り得る詩人が、最も力強く人を動かす。悲しみも怒りも〔描きながら〕ほんたうに悲しみ怒る詩人に描かれてこそ、真に迫る。それ故*2、詩はかやうな天分ある、もしくは狂気染みた人を要求する。前者は自由自在に種種な気分に浸り得るし、後者は、実際、感情が高じて我を忘れ得るからである。而して詩人は、先づ第一に、物語(伝説的のものにせよ、詩人自身の創作にせよ)の大体を普遍的形式に書き卸さねばならぬ。次に挿話を加へて物語を引き伸ばすのである。例へば「タウロスのイフィゲネイア」に存する普遍的要素は下の如く観察されよう。ある一人の処女が人身御供にされようとする刹那に、神隠しに依つて彼女を屠《ほふ》らうとする人人から姿を掻《か》き消し、異国に移された。そこでは、昔からの習ひとして、すべての他国者を女神の生贄とした。イフィゲネイアはかやうな生贄《いけにえ》の司祭にされた。程経て、彼女の弟が、偶〻この土地へ来た。然し神託が、ある理由*3の下に彼に命じてそこへ行かしめたことと、そこへ来た彼自身の目的とは、筋の外に置かれてある。彼がこの土地に来たるや、直ちに捕へられた。さうして生贄にされようとする刹那、彼は名乗つた。その名乗り方は、或はエウリピデスがやつた様に、或はポリュイドスが示唆した「姉が人身御供になつたやうに、自分の運命もさうなるんだ」といふ蓋然的な叫びに依る。さうして、かやうに氏素性を露はすことが救ひを齎《もたら》した。これだけ出来上れば、次は、それぞれの人物に名前を冠らせてから挿話を加へる。然し、これらの挿話は適切でなければならぬ。例へば、オレステスが狂気*4した揚句に捕へられるといふ挿話や、或は彼の水垢離《みずごり》*5が救ひを齎《もたら》すといふ挿話は適切である。戯曲に於いて挿話は短く、叙事詩に於いて挿話は詩を長く引き伸ばすに役立つ。「オデュセイア」の主筋は長くない。ある男が多年他国を流浪してゐた。海神が常に彼を窺ひ、彼を苦しめた。さうして彼はたつた一人きりであつた。故郷の家では財貨は彼の妻に対する求婚者によつて浪費され、彼の子は、また、彼等の陰謀によつて殺されようとしてゐた。其処へ、オデュセウスは、艱苦《かんく》の末帰って来た。さうして自らを名乗り敵を襲つた。敵は倒れ彼は救はれた。これ丈けのことが「オデュセイア」の中身で、他はすべて挿話である。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

拵える:ルビ
殪れ→倒れ
屠らう:ルビ
掻き:ルビ
生贄:ルビ
水垢離:ルビ
齎した:ルビ
艱苦:ルビ

※「詞《ことば》」は元の訳文のルビ。

※アムフィアラオスの「ム」は元の訳文では小さい文字。