アリストテレス『詩学』第二十二章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第二十二章 ■■

 優れた措辞とは、それが明快であると同時に、卑しからぬものであることである。実際、事物に対する普通の語から成る措辞が最も明快である。然し、かやうな措辞は、クレオフォン*1やステネロス*2の詩が示すやうに卑しい。これに反して措辞は、新奇な語(外来語、隠喩、延びた語、その他、常套を脱したすべての語)を用ふることに依つて、高雅となり、非凡な趣を備え得る。けれども、もしも描写の全体が、このやうな新奇な語ばかりでなされるならば、それは、まるで、或は謎となり、或いは夷狄《いてき》の言葉となつて了ふであらう。謎の本質は、実に、ある一事実を語の不可能な結合で描くことである。これは、事物に対する普通の名詞〔広義に於いての〕の結合ではなし得ないが、普通語の代りに、隠喩を以てすれば、なし得るものである。例へば「私は火で、あかがねを一人の人に溶接して居る人を見た」〔私は、火で同性の吸角子《すひふくべ》を一人の人の体にあてて、放血してゐる人を見たを意味する〕の類がそれである。外来語を、かやうに用ふるなら、夷狄《いてき》の言葉となつて了ふだらう。
 それ故詩人は新奇な語を適当に交へることが必要である。一面に於いて、これらの新奇な語(外来語、隠喩、修飾語、その他、上に列挙された種類のもの)は、措辞を平凡ならざるやう、卑しからぬやうにするが、他の一面に於いて、その措辞の中野の普通語は、必要の程度の明快を齎《もたら》すであらう。然し、措辞を明快にし、而も平凡に陥らせないことに最も役立つものは、延びた語、縮まつた語、並びに変形した語である。何とならば、これらの語が普通語と変つてゐる点は言葉を非凡ならしめ、詩文をして異彩を放たしめると同時に、それらの語が一般的に用ひられる普通語と共通なる多くのものを持つてゐる点は、明快を齎《もたら》すからである。それ故、言葉のかやうな様式の言ひ方を咎《とが》め、かやうな言ひ方をする詩人を嗤《わら》ふ批評家達は、彼等自身誤れるものである。例えば、老エウクレイデスがその一人である。彼は、もしも詩人が詩文そのものに於いて、思ふままに語を延ばすことを許されるとしたならば、作詩は容易なことであると言ひ、
  Epikharēn eidon Marathōnade badizonta *5
並びに、 
  ouk an g' cramenos ton ekeinou elleboron *6
を韻文のやうに読むことに依つて、かやうな作詩法を揶揄《やゆ》した。実際、これらの語を延ばすなどの手法を、あまりに露骨に用ひる時には、馬鹿馬鹿しいものになつて了ふ。然し、これは、これらの手法のみに限られてゐない。適度を越えてならないといふ法則は、詩文を形作る所のすべての要素に適用される。仮令、隠喩、外来語、またその他の種類のものにしろ、もしも、これらのものが不適当に、さうして人を笑はす目的の下に用ひられる結果は、同様に、馬鹿馬鹿しいものであらう。けれど、之等〔延びた語〕を適当に用ふる結果は全然別である。それを実認する為に、吾吾は、叙事詩の一句を取り、その句の中へ普通語を入れた結果を見なければならぬ。同様な実験が、外来語、隠喩、その他の種類のものに於いても、またなされなければならぬ。吾吾は、只それらの語に代ふるに、普通語を以てすれば吾吾の正しいことが分るであらう。例へば、アイスキュロスエウリピデスとは、同一なる短長脚詩句を書いてゐるが、アイスキュロスの句は平凡である。然るに、エウリピデスは、普通語として通用してゐる語の代りに、外来語を用ひたといふ、単に、一語の変化によつてその句を光らせてゐる。アイスキュロスは、彼の作「フィロクテテス」*7に於いて、左のやうに書いてゐる。
  私の足の肉を喰べてゐる浸食虫(ファゲダイナ)。
 エウリピデスは、単に、この「喰べてゐる」を「で宴《うたげ》する」と変化した丈けである。また、
  来た、来た、一寸法師の、ろくでなしの、奴《やっこ》さんが。 *8
を、普通語を以て言へば、
  来た、来た、小さい、弱い、醜い男が。
となつて了ふのであらう。また、
  見ぎたない胡床と、ささやかな卓とを据ゑた。 *9
は、左の如くになつて了ふであらう。
  きたない胡床と、小さい卓とを据ゑた。
 また「渚が怒号する」*10は「渚が叫ぶ」となつて了ふであらう。また、アリフラデス*11は、トラゴーディア訳者が、日常の会話に誰も用ひないやうな言ひ方をするからと言つて、彼等を嗤《わら》ふ癖があつた。例へば、 'away from the house' *12 の代りに 'from the house away' と言ひ或は、 'of thee' *13 と言ひ〔'yours' の代りに〕或は、「わしは、でも、あの人と」*14〔「わしの自由意志から結婚したのではなかった」〕と〔「彼女」の代りに「あの人」と〕言ひ、或は 'about Achilles' *15の代りに 'Achilles about' と言ふ如き言ひ方がそれである。然し、これらの言ひ方は、却つて単に、尋常普通の言ひ方でない点で措辞を非凡にする。アリフラデスはそれに気付かなかつた。以上述べた詩文の諸様式並びに、合成語と外来語とを適度に用ふることは、大なる効果を齎《もたら》すものである。とりわけ、隠喩の達人となることが、遥かに最大な効果を齎《もたら》す。これは他人から学び得られる性質のものでなく、其人の天才を示すものである。優れた隠喩を作ることは、同じからぬものの中に、同じものを直覚することだからである。
 以上述べた種類の語の中、合成語は、最もディツラムボスに、外来語は英雄詩〔即ち叙事詩〕に、隠喩は短長脚詩〔即ちトラゴーディアの対話〕に最も適する。英雄詩は、実際、之等のすべてのものを利用し得るが、できるだけ会話を模倣しようとする短長脚詩に於いては、演説に用ひられ得る種類の語のみがあてはまる。即ち、普通語、隠喩、並びに、修飾語がそれである。
 さてそこに描かれたものを、舞台の上で、実行する形式の芸術であるトラゴーディアに関しては、以上述べたもので、十分として置かう。


■訳者解説


■諸家の読方の比較


■訳注


■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

夷狄:ルビ
鎔接→溶接
賎し→卑し
齎す:ルビ
咎め:ルビ
嗤ふ:ルビ
揶揄:ルビ
浸蝕→浸食

※奴《やっこ》、宴《うたげ》、吸角子《すひふくべ》のルビは元の訳文による。

アリストテレス『詩学』第二十一章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第二十一章 ■■

 

 名詞(広義に於ける)には二種ある。gē(earth)の如く、意味なき分子から成立つ単純なるもの、もしくは、二個の部分から成る合成語である。後者の場合に於いては、名詞は一つの意味ある部分と、一つの意味なき部分(但し、合成語になつて了えばこの区別は消滅する)とから、もしくは、二つの意味ある部分から成立つ。合成名詞はまた、三箇、四箇、もしくは、より以上の部分からも成り得る。'Hermocaïcoxanthus'のやうな、吾吾の大袈裟な名詞の大部分がそれである。
 名詞は、その構造の如何に拘らず、常に、普通語、外来語、隠喩(メタフォラ)、修飾語、新語、延びた語、縮まつた語、変形した語の何れかでなければならない。普通語とはある一国で、一般に用ひられる語を言ふ。外来語とは、他の土地で用ひられる語を言ふ。それ故、同じ語であつて外来語であると同時に、普通語であり得ることは明白である(但し、それは、同一の国民に関して言ふのではない)。例へば、sigunos(槍)はキュプロス人にとつては普通語、吾吾〔アテーナイ人〕にとつては外来語である。隠喩とは、事物に、他の何物かに属する名を与へることである。かやうに名を移すことは、或は、類から種へ、或は種から類へ、或は、種から種へ、或は比論(アナロゴン)に拠つてである。類から種への隠喩の一例は「此処に私の船が立つてゐる」*2に見出されよう。何とならば、停泊するといふことは、ある特殊なものの立つてゐるといふことであるから。種から類への隠喩は「オデュセウスは、げに、一万の善行をなした」に見出されよう。ここの「一万」(それはある特殊な多数である)は、類の「多数」といふ文字の代りに用ひられてある。種から種への隠喩は隠喩は「あかがねで命を汲み取りながら」*4〔即ち、あかがねの小刀で切つて生血を放ちながら〕並びに、「不滅のあかがねで切取ながら」*4〔即ち、あかがねの甕《かめ》で水を汲み取りながら〕に見出されよう。これらの例に於いて、詩人は「汲み取る」を「切取る」の意味に用ひ、「切取る」を「汲み取る」の意味に用ひる。両語共にあるものを「取り去る」を意味するからである。比論(アナロゴン)に拠る隠喩(メタフォラ)は、甲乙丙丁の四箇の名辞が乙が甲に対するそれの如く、丁が丙に対してゐる如き関係にある、如何なる場合にも可能である。何とならば、かやうな場合、隠喩的に乙の代りに丁を、丁の代りに乙を置き得るであらう。また、詩人は時時、隠喩と置き換へられる語に関係あるものを、隠喩に附加して隠喩を修飾する。例へば、杯〔乙〕がディオニュソス〔甲〕に対する関係は、楯〔丁〕がアレー(軍神)〔丙〕に対する関係に等しいから、杯は「ディオニュソスの盾」〔丁+甲》〕と、また、盾は「アレーの杯」〔乙+丙〕と、隠喩的に描かれよう。今一例を引けば老〔丁〕が生〔丙〕に対する関係は、夕〔乙〕が日〔甲〕に対する関係に等しいから、詩人は、「日の老い果て」〔丁+甲〕亜(もしくは、かのエムペドクレス流に)、さうして老を「生の夕(もしくは、日没)」〔乙+丙〕と描くであらう。また、かやうな類似関係にある一方が、それ自身の特殊の名を持たないことがあり得る。然し、この場合といへども、前と同様に、隠喩的に描かれるであらう。例へば、趣旨を投げ散らすことは「蒔く」と言はれるが、太陽の場合のやうに、その焰を投げ散らすことは、其特殊の名を持たない。けれども、この特殊の名を持たない行為〔乙〕は、太陽〔甲〕に対して丁度「蒔く」〔丁〕といふ行為が、種子〔丙〕に対して持つと、同じ関係にある。それ故、詩人は「神が作つた焰を蒔きながら」〔丁+甲〕と言ふのである。尚、また、他の様式の修飾された隠喩がある。それは事物を、他の事物に属する名で呼びながら、この新しい名に固有なる属性の一つを否定するのである。盾を「アレー(軍神)の杯」とではなく「酒を盛らざる杯」と呼ぶ如きは、その一例であらう。****5。新語とは何人にも全然未知の語で、詩人自身の作つたものを言ふ。例へば(実際かやうな起源を持つらしい語があるのである)角《つの》〔普通語kerata, pl.〕を意味するernuges〔cf. ernos, young, sprout〕並びに僧〔普通語ではhiereus〕を意味するatētēr〔本来は祈る人を意味する〕がそれである。延びた語とは、ある語の一母音が、その持前の音よりもより長く発音され、もしくは余計な一音節が加へられる場合を言ふ。例へば、polěōsをpolēǒsもしくはPēieidouをPēlēidaeōと言ふ場合がそれである。縮まつた語とは、ある語が、それ自身の一部分を失ふ場合を言ふ。例へば、kri〔=krithē〕dō〔=dōma〕並びに 'Mia ginetai amphoterōn ops'*6 に於けるops〔=opsis〕がそれである。変形した語とは、ある語が、その一部分を元のままに残し、一部分が、詩人に依つて作られた場合を言ふ。例えば 'dexiteron kata mazon' *7に於けるdexiteron(=dexion)がそれである。
 名詞自身は〔それが、普通語、隠喩、その他、如何なる種類に属すとも〕男性女性、もしくは、中性に分けられる。Ν、Ρ、Σ、もしくは、この最後のものとの合成音ご(ΨとΞの二つ)終る所のすべてのものは男性で或。常に長き母音ΗとΩ、もしくは、長く延び得る母音の中のΑに終るすべてのものは女性である。それ故、男性と女性とを作る語尾は同数である。ΨとΞはΣと同じもので、数えなくともいいからである。然しながら、黙音、もしくは、短き母音〔ΕもしくはΟ〕に終る如き名詞はない。只三箇の名詞(meli, kommi, peperi)がΙに終り、五箇の名詞がΥに終る。中性は之等の長く延び得る母音並びにΝ、Ρ、Σに終る。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

 

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

碇泊→停泊
甕:ルビ
雖も→いへども
僧→僧

※角《つの》は元の訳文のルビ。

 

アリストテレス『詩学』第二十章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第二十章 ■■ 

 

 措辞は大体から言つて次の諸部分から形作られる。字母、音節、接続的小詞(スンデスモス)、分離的小詞(アルツロン)、名詞〔広義に於ける〕動詞、格、言詞(ロゴス)がそれである。字母とは不可分なる特別な音であつて、意味ある音の一分子となり得るものを言ふ。不可分な音は、また獣に依つても発せられるけれど、かやうな音は吾吾の言ふ所の字母ではない。之等の基礎音は、母音、半母音もしくは、黙音である。母音とは、他の字母を加へずとも聴き分けられる音を持つ字母を言ふ。半母音とは他の字母が加はり、初めて聴き分けられる音を持つ字母を言ふ。例へばSとRである。黙音とは、それ自身何等の音を持たず、附加(それ自身ある特殊の音を持つ所の字母の一つの)を待つて、初めて聞き分けられる字母を言ふ。例へばDとGである。字母の差別*1は種種な点で生ずる。或は口の様様な恰好や位置に依つて、或は気息音か否か、もしくはその中間か、或は長音か短音か、もしくはその中間か、或は鋭音か抑音か、もしくはその中間か、といふ如き諸点に於いて字母の差別が生ずる。吾吾はこれらに関する委細を音韻学者に譲らねばならぬ。音節とは意味なき合成音であつて、黙音とある音を持つ字母(母音もしくは半母音)から作られる。GRはAなくとも、AをもつGRAと同様に一つの音節である。音節の様様なる形式に就いての理論は、また音韻学に属する。接続的小詞(スンデスモス)とは、意味なき音であつて、一つの意味ある音が数個の音から作られる場合、その結合を妨げることも助けることもせず、さうして一つの原詞(ロゴス)が〔他の原詞《ロゴス》から離れ〕独立してゐる場合、決してその初めには置かれない所のものを言ふ。例へば、men, dē, toi, děである。また、意味なき音であつて二つまたは、二つ以上の意味ある音を、一つの意味ある音に結び付けるものも接続的小詞である。例へばamphi, peri等がそれである。分離的小詞(アルツロン)*2とは原詞(ロゴス)の初めもしくは終り、もしくは切れ目を画する所の、意味なき音を言ひ、その本然の場所は、一方の端もしくは中間である。名詞〔広義に於ける〕とは、時の観念を含まない意味ある合成音であつて、それ自身何等の意味ない部分から成立つ(記憶すべきは、吾吾は、合成音に於いては、その諸部分をそれ自身意味あるやうには考へない。例へば、'Theodōros'(god-given)といふ名前に於いてdōron(gift)は、吾吾にとりて何等の意味もない)。動詞は時の観念を含む所の意味ある合成音であつて、名詞に於いてと同じく、それ自身意味なき諸部分から成立つ。「人」もしくは「白き」といふ語は「何時」といふ観念を含まないに反して「歩く」もしくは「歩いた」といふ語は、歩くといふ観念に、現在もしくは、過去の時の観念を加へる。名詞もしくは動詞の格とは、その後が「……の」を、もしくは「……にまで」を、もしくはその他を意味すると、或はanthrōpoi(men)及びanthrōpos(man)の如く、一もしくは多数を意味すると定めるものを言ふ。格はまた、単に、間、命令等の語調に存する。「歩いたか?」と「歩け!」とはこの最後の部類のもので「歩く」といふ動詞の格である。原詞(ロゴス)とは意味ある合成音を言ひ、その部分のあるものが、それ自身意味を持つ。注意すべきは、原詞(ロゴス)は、必ずしも、名詞と動詞とから作られない。かの人間*3の定義のやうに、動詞が無くても可い。然しその部分のあるものは、常にそれ自身、ある意味を持つであらう。例へば「クレオンが歩く」に於けるクレオンがそれである。原詞(ロゴス)が一箇の原詞と言はれるにも二通りある。即ち、それが一事物を意味するものとして、もしくは、数多の原詞が、接続的小詞(スンデスモス)に依つて一箇の原詞に統一されたものとしてさう言はれる。「イリアス」は数多の原詞の接続で出来た一箇の原詞である。また、かの人の定義も、それが、一事物を意味する点に依つて、一箇の原詞である。

アリストテレス『詩学』第十九章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十九章 ■■

 

 筋と性格とに就いて論じ終つた今や、措辞と思想とに関して考ふる仕事が残つてゐる。思想に関しては「修辞学」に於いて述べたことがあてはまるであらう。思想は*1、寧ろ、学問のその部門に属すべきものだからである。登場人物の思想は、彼等の言葉成し遂げらるべきすべてのものに――あることを*2証明もしくは説き破らうとし、また、哀憐、恐怖、憤怒などの情緒を誘発しようとし、尚、また、あることを極大*3に、もしくは、極小に述べようとする如何なる場合にも現はれる。また登場人物の行動*4に於いても、彼等が彼等の行動をして、哀隣もしくは恐怖を誘発せしめ、或は十代もしくは蓋然の様子を持たしめようと、欲する何時でも、思想の動きが、彼等の言葉に於けると同一なる方式の下に進まねばならないことは明かである。行動と言葉との差別は、只、印象が、前者に於いては、説明なしに与へられるに反して、後者に於いては、説話者に依つて描き出され、彼の言葉から生ずる点にある。実際、もしも事物が台詞を離れて、思ふままに表現されてならば、説話者の仕事として何が残るのであらう?
 措辞に関して注目すべき一つの問題は、言葉が言ひ放たれたる時の語調である。例へば、如何に言ひ放たば、それが命令となり、祈祷となり、或は、ただの叙述となり、恐喝となり、或は、問となり、答となるかなどの問題である。然し、かやうな問題は能弁学、並びに、その方面の学者の仕事に属する。詩人が、これらの事を弁へてゐようともゐなくとも、詩人の腕が、かやうな問題で、重大に問はれるものでない。「女神よ、怒りを歌へ」*5に於いて如何なる欠点が見出されようか? プロタゴラスはこの句を非難して、願望が意味されてある所が命令になつてゐると言ふ。彼の理由とする所は、あることを為せ、もしくは、為すなと、人に言ひ附けることは、命令であると言ふのである。それ故、吾吾は、かやうな問題は、詩ではなく、他の技術〔朗吟の如き〕に属するものとして看過するであらう。

 

アリストテレス『詩学』第十八章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十八章 ■■

 すべての悲劇に於いて一部分は葛藤、一部分は解決である。戯曲のそとの出来事と、そうしてしばしば、戯曲の中の出来事のある部分とが葛藤を、自余のものが解決を構成する。此処に言ふ葛藤とは、物語の初めから主人公の運命が変化しかかる、丁度その点までのすべてを意味し、解決とは、其変化の出発点から最後までを意味する。例へば、テオデクテス作「リュンケウス」*1に於ける葛藤は本戯曲の前提の出来事に加ふるに、子供が捕へられ、次に両親が捕へられる所までを合はしたもの、解決は殺人罪を問はれる所から最後までのすべてである。さて一つのトラゴーディアと他のものとの異同を論ずる場合、何よりも、先づ筋の点から、即ち同じ葛藤と解決とを持つや否やの点から論ずることが正しい。多くの劇作家は優れた葛藤を作りながら、解決に於いて失敗する。劇作家は、常に、両者の構成に於いて優れた手腕を示さねばならぬ。さてトラゴーディアに四種ある――それは、先きに述べたその要素の数である。第一は、その全体が急転と発見から成立つ所の複雑なるものである。第二は、アイアス*2やイクシオン*3を主人公に持つ戯曲のやうな苦悩的なものである。第三は「フティアの女達」*4並びに、「ペレウス」*5の如き性格的なものである。第四は「フォルキュスの娘達」*6及び「プロメテウス」*7並びに、冥府(ハイデス)を舞台にしてゐるすべての劇に見る如き、場面を主要素としたものである。詩人は出来るなら之等の要素すべてを、もしそれが不可能ならば、之等の中野比較的重要なる、さうして出来る丈け多数の要素を併せ用ふるやう努力しなければならぬ。この事は、批評家が、詩人に対して誤つた批判を加へようとしてゐる今日に於いて殊更必要である。過去に於いて之等四種のトラゴーディアのそれぞれ、一方に得意であつた詩人達がゐたものだから、今日の批評家は詩人に向つて、先輩諸家が各自別々に持つた得意な点を、一人で全部持つことを期待するのである。詩人はまた、前にしばしば述べられたことを記憶して、決して、トラゴーディアを叙事詩的――叙事詩的と言ふのは、即ち多数の物語を含む所の――規模に描いてはならぬ。例へば「イリアス」物語全体を脚色しようとするのがそれである。叙事詩に於いては、その規模の大きいため、すべての部分が適当な長さに描かれ得るに反して、叙事詩物語全体を一箇の戯曲の規模に縮めるならば、その結果は誠に失望すべきものである。その証拠に、イリオスの陥落を部分的に(エウリピデスの如く)でなくその全部を、また、ニオベ物語の一部をとる(アイスキュロスの如く)のでなく、全部を脚色しようとしたすべての詩人は、舞台の上にて全然失敗するか、乃至は、只貧弱な成功を収めるに過ぎない。アガトンさへも、只、此点一つで失敗したのであつた。然しながら、彼等アガトンの一派は、急転並びに単一なる筋に於いて、彼等の求めてゐる種類の悲劇的効果を、驚くべき程巧みに、狙つてゐる。彼等の求めてゐるものは、単に〔悪漢の苦悩が〕吾吾の人情に触れる程度の悲劇的事態である。例へば、奸智《かんち》*9に長けた悪党(シスフォスの如き)が騙《だま》され、もしくは、驍猛《ぎょうもう》な悪漢が大敗する如き事態がそれである。但し、これらの出来事は、アガトンが、ありさうもない出来事が起ることはありそうなことであると、言ふ場合のアガトンの所謂、ありさうなことである。それから、コーラスは俳優の一人として認められなければならない。コーラスは、全き戯曲を組織するに必要な一要素を形作り、さうしてエウリピデスよりも寧ろ、ソフォクレスに於けるコーラスの如く、そこに描かれたる人間の行動に与らねばならぬ。然るに、後期の詩人達に於いて、彼等の一つの戯曲のコーラスは、他の戯曲に属する歌謡とも思はれる位、その戯曲自身の筋と何等因縁もない歌謡を唄つてゐる。今日のコーラスがかかる挿入的歌謡を唄つてゐるのは、その為であつて、アガトンこそがかやうな伝統の始祖である。だが、かやうな挿入的歌謡を唄ふことと、一台詞、もしくは、一挿曲(エペイソディオン)全体を一つの戯曲から他の戯曲へ挿入することと、如何なる相違があらうか?

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

屢〻→しばしば
爾餘→自余
覘つて→狙つて
奸智:ルビ
騙され:ルビ
驍猛:ルビ

 

アリストテレス『詩学』第十七章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十七章 ■■

 筋を組立て、それを詞《ことば》に拵《こしら》へ上げるに際して詩人は出来るだけ、描く所のものを眼前に浮かべなければならぬ。かくして凡てを、丁度、それらが実際に起つてゐる所を目撃してゐるかの如く、明かに眺めることに依つて、詩人は適切なるものを考案し、矛盾を見逃すことも、極めて稀れになるだらう。この点はカルキノスが受けた非難で証明される。何とならば〔彼の作中に現はれる〕アムフィアラオス*1は聖堂から帰った。然しこの〔矛盾〕は、この出来事が、観衆に観られなかつたならば、気付かれずに通つたであらう。然し、舞台の上では、この作は失敗に終つた。観衆はこの出来事の矛盾に不快を感じたからである。而して詩人は、また、描く所のものを、人物の身振所作で以て出来得る限り自ら演じて見なければならぬ。同じ程度の天分が与へられたとするなら、描かれる所の感情に自ら入り得る詩人が、最も力強く人を動かす。悲しみも怒りも〔描きながら〕ほんたうに悲しみ怒る詩人に描かれてこそ、真に迫る。それ故*2、詩はかやうな天分ある、もしくは狂気染みた人を要求する。前者は自由自在に種種な気分に浸り得るし、後者は、実際、感情が高じて我を忘れ得るからである。而して詩人は、先づ第一に、物語(伝説的のものにせよ、詩人自身の創作にせよ)の大体を普遍的形式に書き卸さねばならぬ。次に挿話を加へて物語を引き伸ばすのである。例へば「タウロスのイフィゲネイア」に存する普遍的要素は下の如く観察されよう。ある一人の処女が人身御供にされようとする刹那に、神隠しに依つて彼女を屠《ほふ》らうとする人人から姿を掻《か》き消し、異国に移された。そこでは、昔からの習ひとして、すべての他国者を女神の生贄とした。イフィゲネイアはかやうな生贄《いけにえ》の司祭にされた。程経て、彼女の弟が、偶〻この土地へ来た。然し神託が、ある理由*3の下に彼に命じてそこへ行かしめたことと、そこへ来た彼自身の目的とは、筋の外に置かれてある。彼がこの土地に来たるや、直ちに捕へられた。さうして生贄にされようとする刹那、彼は名乗つた。その名乗り方は、或はエウリピデスがやつた様に、或はポリュイドスが示唆した「姉が人身御供になつたやうに、自分の運命もさうなるんだ」といふ蓋然的な叫びに依る。さうして、かやうに氏素性を露はすことが救ひを齎《もたら》した。これだけ出来上れば、次は、それぞれの人物に名前を冠らせてから挿話を加へる。然し、これらの挿話は適切でなければならぬ。例へば、オレステスが狂気*4した揚句に捕へられるといふ挿話や、或は彼の水垢離《みずごり》*5が救ひを齎《もたら》すといふ挿話は適切である。戯曲に於いて挿話は短く、叙事詩に於いて挿話は詩を長く引き伸ばすに役立つ。「オデュセイア」の主筋は長くない。ある男が多年他国を流浪してゐた。海神が常に彼を窺ひ、彼を苦しめた。さうして彼はたつた一人きりであつた。故郷の家では財貨は彼の妻に対する求婚者によつて浪費され、彼の子は、また、彼等の陰謀によつて殺されようとしてゐた。其処へ、オデュセウスは、艱苦《かんく》の末帰って来た。さうして自らを名乗り敵を襲つた。敵は倒れ彼は救はれた。これ丈けのことが「オデュセイア」の中身で、他はすべて挿話である。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

拵える:ルビ
殪れ→倒れ
屠らう:ルビ
掻き:ルビ
生贄:ルビ
水垢離:ルビ
齎した:ルビ
艱苦:ルビ

※「詞《ことば》」は元の訳文のルビ。

※アムフィアラオスの「ム」は元の訳文では小さい文字。

アリストテレス『詩学』第十六章(松浦嘉一訳) ※書きかけ

■■ 第十六章 ■■

 発見(アナグノーリシス)の如何なるものであるかは、大体、既に説き終つた。発見の種類に関して、第一に挙げられるのは、最も芸術味の少ないものであるが、単に、他に工夫なき所から、最もしばしば利用されるもの、即ちしるしに拠る発見である。これらのしるしの中、あるものは先天的である。例へば、「地*1から生れたる人人のもつ槍尖」〔痣《あざ》〕もしくは、カルキノス*2が「ツエステス」に於いて使つてゐる「星」がそれである。他のしるしは、後天的である。傷痕*3の如き肉体の上のしるし、或は首飾もしくは、例へば「トゥロオ」*4に於ける発見の拠つて起る所の小船の如き外部的のものである。然るに、是等のしるしの用ひ方に於いてさへも優劣がある。オデュセウスの傷痕がその例である。オデュセウスは、傷痕から、ある時*5は、乳母によつて発見され、ある時*6は、牧豚者から発見される。人に信を強ふる手段としてしるしを用ひてゐる発見には芸術味が少ない、実に、熟慮を要するやうな発見すべては芸術味が少ないものである。これに反して、しるしを出して、しかもその出し方が、人の意表に出る発見、例へば「湯浴み」*7の節に於ける如き発見は優れたるものである。次に挙げられるのは、作者自身が、勝手に、こしらへた〔篇中の事件の自然の順序から来たものでない〕発見である。こしらへものといふ理由で、この発見は芸術味の乏しいものである。例へば「タウロスのイフィゲネイア」に於いて、オレステスが、自分はオレステスだと名乗る場合である。イフィゲネイアは、手紙*8によつて彼女の姓名を洩らしたに反して、オレステスは、筋よりも作者自身が必要としてゐるやうな台詞*9を言はされてゐる。それ故、かやうな発見は、上に挙げた〔態とらしいしるしを用ふる発見の〕拙劣さと相去ることあまり遠くない。何とならば、この場合オレステスは何等かのしるしを出しても、変りなかつたらうからである。今一つの例は、ソフォクレス作「テレウス」*10の中の機梭《はたをさ》の音である。第三に挙げられるのは、記憶を通しての発見である。即ちあるものを見たり聞いたりして、あることを思ひ起す為に〔思はず感情が外に出て〕発見される場合である。ディカイオゲネス*11作「キュプロスの人人」に於いて、彼は絵を見たとき泣き出した。また「アルキノス物語」*12に於いて、オデュセウスは竪琴を弾ずる人を聴いて、昔を偲び泣く。かくして二人とも発見される。第四は推論に拠る発見である。例へば「手向けする人人」に於ける「妾《わらわ》*13のやうな人がここにゐる。オレステスのほかに、妾《わらわ》のやうな人はない。だからオレステスがここにゐるのだ」がそれである。或は「タウロスのイフィゲネイア」に対して〔オレステスのイフィゲネイアに対して名乗る仕方に対する〕詭弁《きべん》学徒ポリュイドスの与へた示唆も推論に拠る発見である。「姉*14は人身御供になつた。さうして自分も、同じやうに、人身御供になるんだ」と、さうオレステスが考へるのは自然だつたからである。或は、テオデクテス*15作「テュデウス」に於ける「子を捜しに来た自分の方が死んで行くのだ」である。或は「フィネウスの娘達」*16に於いて、女達はその場所を見るや「妾《わらわ》等は此処で棄てられたことがあつたから、此処で死ぬのは、妾《わらわ》等の運命なのだ」と推測する。また、他の一方の人の誤れる推論から合成されて出来る発見がある。例へば「使者*17に仮装したるオデュセウス」に於ける如きものがそれである。彼は、まだ、見たことがない弓に就いて「私はその弓を知るであらう」と言つた。然し、他の人が、彼のこの言葉から、彼はその弓を再び見るだらう〔恰も前にそれを見たことがあるかの如くに〕と推測するなら、それは誤れる推論である。然し、すべての種類の発見中最も優れたるものは、出来事そのものから生ずる発見である。この場合、大なる驚愕《きょうがく》が蓋然なる出来事を通して起る。ソフォクレス作「オイディプス王」に於ける発見がそれである。或は「タウロスのイフィゲネイア」に於いての発見がそれである。イフィゲネイアが手紙を家に届けようと欲することは蓋然なる出来事である。これらの最後に挙げた発見のみがしるしや首飾などの態とらしい技巧から脱している。これらの次にとるべきものは推論に拠る発見である。

 

■訳者解説

 

■諸家の読方の比較

 

■訳注

 

■編注

旧字体新字体の変換のほか、常用+人名用の範囲に含まれない漢字等を、以下のように変換またはルビ振りした:

痣:(ルビ振り)
頸飾→首飾
洩らした:(ルビ振り)
妾:(ルビ振り)
詭弁:(ルビ振り)
驚愕:(ルビ振り)